生き残りを賭けた試行錯誤の果てに

来年4月、富士重工業は、前身の飛行機研究所(後の中島飛行機)の創立100周年を機にスバル(SUBARU)に社名を変更し、ようやくにして名実ともにブランド・社名が統一される。

ようやくと言うのは、過去、歴代の社長が社名変更を検討していたが、なかなか富士重工業から変えきれなかったからだ。その理由は航空機事業や産業機器事業、バスボディ事業など、その生い立ちから多角的事業を抱えていたからに他ならない。なおかつ、1990年代末までは日産との資本提携関係で日産グループにあり、社長も日産や日本興業銀行から送り込まれてきた歴史的経緯もある。

スバルはかつて、「てんとう虫」の愛称で親しまれた軽自動車「スバル360」を生み出し、それが軽自動車の先駆けとなった。その後も水平対向エンジン、四輪駆動の技術力で玄人好みの「スバリスト」と呼ばれるスバル車ファンは少なからず固定化されていた。

てんとう虫の愛称で親しまれた「スバル360」

しかし、スバルには規模の問題が付きまとう。米国に進出した当時、現地工場はいすゞ自動車との合弁だったし、日産グループとしての位置づけは、日産が仏ルノーの傘下に入ったことで終わりを告げた。今度は米GMとの資本提携でGMグループ入りしたが、GMの業績悪化を受けてトヨタとの資本提携に移るなど、スバルは生き残りを賭けた試行錯誤を経験してきたのだ。規模の観点から見ると、スバルはどこかのグループに入らざるを得ない自動車メーカーだといえる。

だが、トヨタとの資本提携以降、思い切った「経営の選択と集中」に打って出たことが、今日の営業利益率の高さ、収益力向上に結びついた。

営業出身の吉永体制、「選択と集中」経営が奏功

旧中島飛行機が前身であるだけに、スバルの技術力には定評があったが、富士重工業という社名のように「重いイメージ」もあったため、社風も技術屋が強い感があった。

現在の吉永社長が就任したのが2012年6月。国内営業出身として初の社長だった。吉永社長は、強い技術屋集団を尊重しつつ、スバルに求められるニーズをブランド化に結びつける取り組みを積極的に進めた。

加えて、軽自動車の開発・生産から撤退(ダイハツ工業から軽自動車OEM供給を受ける)し、コンパクトカーの開発・生産も止めて、米国にリソースを集中させた。トヨタと共同でスポーツカーを開発(トヨタ86・スバルBRZ)し、スバル群馬工場で生産・供給するなどトヨタとのグループ間協業も進めていった。

トヨタと共同開発したスポーツカー「BRZ」

「北米で成功して利益がでれば、国内向けの開発ができる。軽自動車の開発・生産からの撤退など、選択と集中は重い決断だったが、スバルがグローバルで生き残るためだった」と、吉永社長は述懐する。そして吉永体制は、北米での高い収益率を核にして快進撃をみせてきた。