11月14日公開の最新作『ラスト・ナイツ』でハリウッド進出を果たした紀里谷和明監督。テレビ番組で映画批評家に対して痛烈な批判をしていた紀里谷監督に、批評家に対する本音を聞いた。

15歳で単身渡米、デザインや音楽、絵画、写真、建築などを学び、ニューヨーク在住時の1990年代半ばに写真家として活動を開始し、その後、映像クリエイターとして数多くのミュージックビデオなどを手がけてきた紀里谷監督。2004年に『CASSHERN』で映画監督デビューし、2009年には『GOEMON』を発表、そして、5年の歳月をかけた渾身の第3作『ラスト・ナイツ』が完成した。過去2作品を振り返り、批評家に対して辛口な意見を発していた監督だが、その根底には、批評家が必要だからこそ役割をしっかり果たしてほしいとの思いがあるという。

――テレビ番組で、映画批評家を批判されていましたが、本作においても批評家のコメントは意識しますか?

『ラスト・ナイツ』でハリウッド進出を果たした紀里谷和明監督

まずはじめに、僕は批評家がいての業界だと思っています。そもそも、批評家がなぜ存在するかというと、「みなさん知らないと思いますが、こんなにすてきな作品がありますよ」と伝える機能を担っているんです。若手監督の作品でだれにも見てもらうチャンスがないものを、力のある批評家が推薦すると見てみようと思うかもしれない。その逆もあって、みんながすごいと言っているものを、そうではないと言うこともある。機能としては絶対に必要だと思います。ですから、批評家の存在自体を否定しているわけではなく、批評家自体が凝り固まってこうあるべきと言うのは、芸術という自由なものの可能性を狭めてしまうと心配しているんです。

僕たちの仕事は、「こういう世界もあるのではないか」「こういう人間がいてもいいのではないか」「こういう考えがあってもいいのではないか」という自由の提案だと思います。なぜならば、現実社会は非常に不自由な社会であって、その中で苦しんでいる人に対して自由の提案をしているつもりなんです。例えば、自分はこういう人間でありたいという願いがあるのに、社会というものがそれを失速させていく。そこで、一人のキャラクターを使って「こういうことでしょ」と提案するわけです。

そして、見た人が「そういうことなんだよ」って思ってくださるから、そこに感情移入していただいて、喜んでもらえる。そこには、圧倒的な自由がない限り、表現ができなくなってしまい、表現することはできてもお客さんに届けられないということになってしまう。批評家が「これはこういうものですよ」「こうでなければいけない」と言い始めたら、それはシステム的な人間です。そうなると、批評家の存在が逆に危ぶまれると思うんです。

こちら側も批評家の存在が必要だからこそ、意見を述べたんです。これが何かのスタンダードに合致していないから違うと言われてしまうのは、どうなんだろうかと。自由を窒息させてほしくないですね。もちろん、今回の作品に関してもいろんな意見が出てくると思いますけど、届く人に届くといいなと思っています。

撮影:蔦野裕