注目を集めるテレビ番組のディレクター、プロデューサー、放送作家、脚本家たちを、プロフェッショナルとしての尊敬の念を込めて“テレビ屋”と呼び、作り手の素顔を通して、番組の面白さを探っていく連載インタビュー「テレビ屋の声」。今回の“テレビ屋”は、放送作家の北本かつら氏だ。
バラエティを中心に各局で様々な番組を手がけているが、そこに至るまでは「運が良かった」と振り返る業界レジェンドたちとの数々の出会いがあったという。さらに、インタビュー中には、ビートたけし、志村けん、さまぁ~ず、飯尾和樹(ずん)、サーヤ(ラランド)といった“東京芸人”たちへの愛が随所であふれ出てきた――。
■放送作家なのに急きょフロアディレクターに…
――当連載に前回登場したフジテレビの鈴木善貴さんが、北本さんについて「入社したときからずっと一緒にやっていて、センスがいいなあと思っています。具体的に案を出してくれるので、そういう人は重宝してありがたいなと思いますね」とおっしゃっていました。
善貴くんは『アウト×デラックス』の演出やってますけど、彼は“アウトな人”として出る側の人間ですよ。例えば今、『ホンマでっか!?TV』を一緒にやってますけど、これに誘われたのときなんて、いきなり「定例会議、週2でやってるんですけど、かつらさん来週から来てもらうんで、そこに仕事入ってたら辞めてください」って言うんです。「一応僕のスケジュールも聞いてくれないの?」って言ったら、「いや、辞めるってことで来てくださ~い」って。それで他に2つ番組あったのに、事情話して無理やりずらしてもらって。
――それを何で受け入れてしまうんですか(笑)
聞かないんですもん、善貴くん。あと、年末特番(『僕のベスト私のベスト』)を一緒にやったんですけど、収録の前日に電話かかってきて「人手足りないんでフロアディレクターやってください!」って言ってきて。「いやいやディレクターなんかやったことないよ(泣)」と言ったら「かつらさんも何十年も業界にいるんだから、カンペ出してるところ見たことあるでしょ。大丈夫です大丈夫です、教えますから」とか言っておきながら当日、インカムの操作だけ教えてくれたら、あとは何も教えてくれないし。本番中に僕が変な操作をしたのかインカムが聞こえなくなっちゃって、カンペ出さなきゃいけない進行の山崎(夕貴)アナと向井(慧)くんの前で固まっちゃって。
収録終わって「作家なのにこんなこと初めてだわ、パニックだったよ(泣)」って言ったら、「かつらさん、令和ですよ! 職域を区切るってダサくないですか? 作家とかディレクターじゃなくて、大きくテレビマンでいいじゃないですか! わっはは! また、フロアディレクターやらせますね」なんて感じなんです。絶対また、やらされますよ。
――『ホンマでっか』でさんまさんの前でやらされることになったら、大変じゃないですか!
いや地獄ですよそんなの(笑)。ほかにも「キャスト案でかつらさんの名前、企画書に書いちゃいました」とか、嵐の特番で1回も会議出ずにネタ案送っただけでギャラ振り込まれたり、台本打ち合わせの時に彼女連れてきたり…。だから、『アウト×デラックス』の最終回は、善貴くんです。本当に変人ですから。
――めちゃくちゃですね(笑)
一番ヤバかったのは、結婚祝いで「かつらさん、鳥山明さん好きじゃないですか」と言って、「かつらくんへ、おめでとう! 鳥山明」ってメッセージ付きのクリリンの絵をもらったんですよ。もう完璧な鳥山明の絵で本当にうれしくて、家で額縁に入れて飾ってたんですね。それから数年後、『かりそめ天国』でみんな家に1つはお宝があるだろうという話になって、スタッフでもあるんじゃないかということで、「鳥山明先生のサイン付きの絵があるぞ!」と思いついて鑑定してもらったら、本物だということで80,000円の値がついたんですよ。それをすぐ善貴くんに伝えたら、「えー! 俺が描いたのに」って(笑)。放送にならなかったかのでよかったですが…。
――あぶないあぶない(笑)
善貴くん、めちゃくちゃ絵がうまいんですよ。しかも自分のタッチじゃなくて、『ワンピース』も少女漫画も、コピーロボットみたいに描くんです。年下なのに彼が入社以来、そういういたずらを延々とやられてます(笑)。だから今回指名してきたのも、いじり甲斐があるからじゃないですかね。
■テレビ番組へ勝手にネタ投稿
――そもそも放送作家には、どのようにしてなられたのですか?
大学のとき、父と同じ広告マンになりたくて、当時電通のクリエーティブ局にいた藤島淳さんという人が大学生集めてやっていたコピーライターの授業みたいなのに参加する機会があって、「ツムラの入浴剤」という課題が出たんです。それに「いい湯だな 馬場んば、馬ん場んばん」というコピーに、ドリフメンバーの中心にジャイアント馬場さんの切り抜きをコラージュみたいにして出したら、やたら褒められて。その授業の後に飲みに連れてもらって生意気にいろいろ話したら、「コピーライターよりテレビ好きじゃない。放送作家とかいいんじゃない?」と言われ、「じゃあそれだ!」となったんです。そこから、なんのコネもないので、投稿感覚で各局にネタを送り始めました。
――特に番組から募集していたわけじゃないですよね?
してないですよ。雑誌とかラジオに送るのと同じ感覚で、最初は日本テレビの『マジカル頭脳パワー!!』とか、テレビ東京の『銀BURA天国』という天然素材の番組とかに、そこから、気になる深夜番組とか片っ端から「こういうコーナーはどうですか?」みたいなネタを勝手にテレビ局の住所に、スタッフロールに出てくるプロデューサーの名前を書いて送ってたんです。今思うとアブナイやつです(笑)
そんなことをやってたら電話がかかってきて、日テレの深夜でやってた『所的蛇足講座』(福岡放送制作)という番組に制作をやっていたホリプロの曽川(修二)プロデューサーの番組に若手作家として呼んでいただくことになって。そこからホリプロの常務の森(章)さん、当時バカルディさんのチーフマネージャーだった岡(孝二郎)さんに声をかけてもらい、深夜番組のネタ出しとか、毎月のホリプロライブの構成を任されるようになって、さまぁ~ずさん、当時のバカルディさんに会うんです。
――大学生にライブの構成も任せてくれたんですか!
僕、生意気だったんで、曽川さんと岡さんに「できるか?」って言われて、「できます!」みたいなノリで(笑)。若手のライブのネタ見せに行ったり台本を直したりして、ライブ全体の構成もやって。(榊原)郁恵さん、井森(美幸)さんの舞台のADなんかもさせてもらったり、大学にも行かず、ほぼ毎日ホリプロでうろちょろして、ご飯食べさせてもらい、お小遣いも頂いてました。
放送作家って、最初は制作会社とか芸人の座付きとか、ディレクターに育てられるという人が多いんですけど、僕は芸能事務所から入ったので、ホリプロの方たちが売り込んでくれるのがうまかったんですよ。局のプロデューサーやディレクターに、森さん、岡さん、曽川さんが「こいつギャラなしでもいいんで、こき使ってください! 若くて生意気なんですが、ホリプロライブ仕切らせてるんですよ~」なんて大げさに言ってくれて。実際はまだまだ実力不足でライブ終わりにいつも、さまぁ~ずさんに反省会の居酒屋で怒られてばかりだったんですが…。
それで最初にターニングポイントになったと思ったのが、当時フジテレビのプロデューサーだった吉田正樹さん(現・ワタナベエンターテインメント会長)が、番組をやるからということで若手芸人をスカウトしにホリプロのライブにいらしたんです。でも僕、偉い人だって知らなかったので、慣れ慣れしく、ペラペラお笑いについて生意気なことをしゃべってたんですよ。そしたら後日、吉田さんから「ナベプロライブの構成もやりなさい。君はまだ若いから、放送作家をやるんだったらホリプロの笑いのルールだけじゃなくて、ナベプロ笑いのルールも勉強して、まだまだ足りない基礎を作りなさい」と言われたんです。もうお父さんみたいな感じですよね(笑)
■ホリプロ&ナベプロライブの両輪からテレビへ
――それで、両方の事務所ライブをやるようになったんですね。
でも、さすがにホリプロのライバル会社のライブは…って思いましたね。ナベプロでミキさん(渡辺ミキ社長、吉田正樹氏夫人)との面接をした帰りに、目黒(ホリプロ)に行って森さんに報告したら、「勉強なら、かつら! 両方頑張ってやればいいじゃん。どっちから見ても、今日からスパイかつらだな(笑)」と言われて。後日吉田さんから聞いたんですが「かつらをよろしくお願いします!」って森さんが電話で話してくれたんみたいなんです。ホリプロのタレントでもないのに…
――懐が深い!
それから、ホリプロライブとナベプロライブを両輪でやるようになったんです。すると、吉田さんがナベプロのネプチューンとかビビるとかで深夜番組や、『笑う犬』『力の限りゴーゴゴー!!』『エブナイ』『チノパン』とか始まるたびに、一番下の作家として呼んでいただけるようになりました。
一方で、ホリプロではバカルディがさまぁ~ずに改名してブレイクしたタイミングも重なり、さまぁ~ずさんの番組に呼ばれるようになって、TBSで演出をやられていた中川通成さん(現・制作一部長)に大竹(一樹)さんが「若手でまだ食えない作家がいるから面倒見ていただけないですか」って言ってくれたらしく、中川さんに呼ばれてTBSのウッチャンナンチャンのレギュラーや特番をやらせていただくことにもなりました。中川さんには一番最初にゴールデン特番のチーフを20代前半でデビューさせていただき、いまだに足を向けて寝られません。
こうやって20代の頃は家にも帰らない大学にも行かないで、フジテレビ、TBS、ナベプロ、ホリプロをぐるぐる回って過ごしてましたね。TBSで寝て、フジでお風呂入って、ホリプロ行ってお昼ごはん食べてみたいな。深夜、ライブの準備でナベプロで寝てたらジーパンの股が破れてて、ミキさんに「ナベプロライブの構成してる作家が股が破れたズボンなんて」と言われて、マズいなって思いながら次の週また同じズボン履いてナベプロに行ったら、新しいズボンをミキさんから頂いたり(笑)。ずっと、ホリプロ、ナベプロの優しい大人の方々に助けてもらいながら、勉強もさせてもらって、まさに青春時代を過ごしたという感じでした。
弁護士になりたくて大学に行ったつもりでしたが…もう勉強もしてないし、こっちのほうが相当面白いや!となってしまってましたね。
――そこから、さらに他の局にも広がっていくんですね。
さまぁ~ずさんがブレイクしたタイミングで、テレ東でさまぁ~ずさんとダチョウ倶楽部さんのお笑い番組(『ダチョウ&さまぁ~ずの若手で笑っちゃったよ!』)をやろうという話が来て、その番組の当時はまだ演出だったか、今の僕の兄貴分である若かりし伊藤(隆行)Pと2人で一緒に寝そうになりながら朝までかかって台本作って、本番に挑み、そこから『ゴッドタン』の前身の『大人のコンソメ』という番組を一緒にやらせていただいて、『やりすぎコージー』そして、今の『モヤさま(モヤモヤさまぁ~ず2)』という流れですね。
本当に流されるまま、気がついたら、テレビの現場のど真ん中に、末席でありながら居させていただきました。電通の藤島さんの授業からここまでで、3年くらいの猛スピードで、全部いきなり現場現場の実践で大変学ばせていただきました。19~21歳くらいでホリプロ&ナベプロライブと若手芸人のライブ、深夜番組。22~24歳で『力の限りゴーゴゴー!!』『おしゃれカンケイ』、深夜や特番のチーフ作家、25~26歳で『ヘキサゴン』『トリビア』『IQサプリ』、27~28歳『みなさんのおかげでした』『やりすぎコージー』、29か30歳で一発目のモヤさま特番でしたので運がいいだけなのですが、ただただ流されてただけなのに、食えなくてヒーヒー言ってる給料0、バイトバイトの修業時代!みたいのは一切ありませんでした。時代もありますが、大学6年通ってる中、ずっと大学生とは思えないギャラを頂いていたと思います。ただただ実力というより、人との出会いの運がよかったんだなぁと。