――当時は、TOKIOやV6はバラエティタレントとしては素人に近い存在だったと思いますが。

TOKIOは、少し前に『鉄腕!DASH!!』(日本テレビ、現『ザ!鉄腕!DASH!!』)が始まってたのでまだ経験は少しあったんですが、V6はテレビで本格的にレギュラー番組を持つのは初めてだったと思いますので、本当に素人といってもいい状態でしたね。

――そんな状態のアイドルでバラエティを作るというのは大変な苦労があったと思うのですが。

いや、でも彼らはディレクターの言うことを素直に聞いて取り組んでくれたのでやりやすかったですね。もちろん、最初はうまくはない。けど、芸人さんだったら、僕らが想像もしないような面白いことをやってくれる代わりに、僕らがやりたいことはしてもらえないこともある。けれどV6は初めてだから、これは面白いと思うからやろうよってこちらが言うと、素直にやってくれるんですよ。

あと『学校へ行こう!』は優秀なディレクターだらけだったんです。きれい事でなく僕は運が良かった。だから現場も、この人たちがやることは面白いから大丈夫っていう信頼感があったと思います。そのうちに半年とか1年とかやっていくと、彼らも面白がり方も分かってくるので、こちらから言わなくても勝手にやるようになって、見違えるようにうまくなりましたね。僕は今でも、V6はTOKIOとは違う部分で、素人さんと絡むロケバラエティだったらジャニーズでナンバー1だと思います。それだけ数をやりましたから。

――『ガチンコ!』は合田さん色のより強い番組だったと思います。

『学校へ行こう!』が火曜夜8時に移動して、その直後の9時から『ガチンコ!』が始まることになったんですよ。同じジャニーズ事務所のアイドルグループで同じようなスタッフの番組が2時間続くって今考えるとめちゃくちゃな編成(笑)。だから、差別化しなければいけなかったんです。僕の中でV6の『学校へ行こう!』はアイドルとしても番組としても"王道"だと思っていたので、僕の考えるV6とは違うTOKIOの特徴を極端にデフォルメしてイメージしてできたのがあの番組っていうことですね(笑)。"肉体労働者的"な男っぽさを全面的に押し出したんです。

――編集やナレーションもかなり特徴的でしたね。

音楽とマンガから強く影響を受けてますね。編集のリズムは音楽の影響ですし、あの長いナレーションは福本伸行さんや梶原一騎さんのマンガ。福本マンガって、ト書きでできてるじゃないですか(笑)。完全にその影響ですね。あの時代がかった小難しい言葉を使って、長々と入れる。1ブロックでナレーション40秒みたいな(笑)。そんなナレーション、普通ないですから。最長で1ブロックに1分25秒。小説の朗読ですよ(笑)。だから番組としては『学校へ行こう!』のほうがいい番組だと思いますよ。『ガチンコ!』はいびつなんです(笑)。でも多少いびつなほうが目立ったりしますからね。

――それから編成に移られて『リンカーン』を立ち上げるんですね。

『ガチンコ!』や『USO!?ジャパン』が2003年頃に終わり、2004年に編成に異動になるんです。当時はちょうど、ドキュメントバラエティブームが終息し、お笑いブームが勃興し始めていた時期でした。だからTBSでもお笑い番組をってなったときに、先ほどからの話につながるんですけど、もう1回、ダウンタウンさんとやりたいと思ったんです。自分なりにジャニーズの方たちと番組をやって成功して、若い時に受けた悔しい気持ちが1回晴れたところで、あらためて考えてみるとTBSも11年間ダウンタウンの番組がなかったんで。

藤井健太郎氏

でも、いきなりお2人をいっぺんに呼ぶのは怖いから(笑)、まずは浜田さん単独で『オオカミ少年』という番組を2004年の秋に立ち上げたんです。その時、同時に『ドリームマッチ』の企画も立ち上がっていて、2005年のお正月にやるんですけど、それが成功したら、『ドリームマッチ』に集まったようなドリームチームで番組を始めようっていう計画だったんです。それで実際に2005年の秋から『リンカーン』が始まったんです。

――松本さんの反応はどうでしたか?

やっぱり最初は大変でしたね。なかなかうまくいかなかった。でも、10年近くやってプロデューサーの坂本義幸たちが信頼を得て、今では『水曜日のダウンタウン』とか『クレイジージャーニー』とか、特番とかもやっていただいてますからね。藤井健太郎(『水曜日のダウンタウン』演出)とかが出てきたのも大きいとは思いますが、ある程度認めてくださっているんじゃないかって感じます。本当に感無量ですね。