「汽笛一声新橋を、はや我が汽車は離れたり」で始まる『鉄道唱歌』は、鉄道ファンなら一度は耳にしたり歌ったりしたことがあるだろう。歌詞を知らない人でも、国鉄時代の古い特急列車などで車内放送用のチャイムとして聞いたことがあるはず。品川駅の東海道本線下り列車の発車メロディでもある。最後に蒸気機関車の汽笛が流れる、あの曲だ。

鉄道唱歌第一集、東海道編は1900(明治33)年に発表された。作詞は詩人や国文学者でもあった大和田建樹(おおわだ たけき)。作曲はいくつか競作があり、現在は多梅稚(おおの うめわか)のメロディが最もよく知られている。

  • 丹那トンネルが開通する前は御殿場線が東海道本線だった(国土地理院地図を加工)

1899年に東海道本線が新橋から神戸まで開通し、その翌年に鉄道唱歌は誕生した。新橋から始まる理由は、まだ東京駅が開業していなかったから。東京駅の開業は1914(大正3)年。鉄道唱歌の新橋駅も、現在の新橋駅ではなく、後の汐留貨物駅だった。現在は「シオサイト」と呼ばれる一帯で、旧新橋停車場が再現されている。

鉄道唱歌は地理の教材として作詞されたため、歌詞に駅名や地名、名産、風景が織り込まれている。1曲は短いけれど、東海道編は66番まである大作だ。地理教材か遊び心か、大船で横須賀線に乗り換えて鎌倉へ行く場面もある。

1900年当時の東海道本線を歌っているため、現在とはルートが違う部分もある。最も大きな違いは国府津~沼津間で、現在の御殿場線のルートが織り込まれている。12番で国府津に到着し、13番で山北と小山(現・駿河小山駅)が登場。14番は富士山の景色を眺め、15番で御殿場、16番で三島(現・下土狩駅)。三島駅から豆相線路のわかれみちを歌い、17番で沼津に着く。これが当時の東海道本線ルートだった。

このルートは当時の東海道本線だったけれど、勾配区間が多く、蒸気機関車が活躍した頃は遅延が発生した。そこで、高速に輸送するルートとしてトンネルと海沿いの短絡ルートを建設することになった。1934(昭和9)年に丹那トンネルが開通すると、丹那トンネル経由のルートが東海道本線となり、従来のルートは御殿場線となった。したがって、丹那トンネル経由ルートにある熱海駅は鉄道唱歌の歌詞に含まれていない。

ただし、小田原は鉄道唱歌に含まれている。小田原は箱根八里の手前の大きな宿場町で、知名度もあったからだろう。12番の歌い出しは「國府津おるれば馬車ありて 酒匂小田原とほからず」であった。地理教育のためであれば、最大の宿場町である小田原は無視できない。ただし、丹那トンネル開通後に小田原方面の歌詞が変わり、馬車から電車になった。「國府津おるれば電車あり」と改訂されている。