緋沙子は爪が伸びるのが早い。30代以下の会社の女も、周りの友達もみんなジェルネイルをしているが、緋沙子はすぐに爪が伸びて、根元に地爪が見えて不格好になってしまう。「落としたい」と思ったときに自宅で落とせないジェルネイルは、緋沙子には向かなかった。

本当はジェルネイルをしたほうが落ちなくて楽なのに、自分で落とせないから、という理由で緋沙子は自分でネイルを塗っていた。丁寧にトップコートを塗っても、そんなに長くは保たない。会社でパソコンのキーボードを一日中叩いているし、家に帰れば料理をしたり、食器を洗ったりするので、すぐに剥げてきてしまう。つくづく労働者には向かないおしゃれだなぁ、いや、おしゃれそのものが労働者には向かないのかもしれない、なんて誰にも発表しない考えをひとり巡らせては、それでも爪が綺麗に塗ってあるというのは、やっぱり少しいい気分だな、と、指先をふと見つめたりする。

マニキュアを塗るのは、得意なほうではなかった。上等なマニキュアのほうがブラシがしっかりしていて塗りやすい、と気づいてからは、こまごまとたくさん買わずにベーシックな色を一つずつ揃えていくようにした。一色買うごとに塗るのがうまくなっていった。

最初は、職場につけていけるように淡いピンク、ピンクベージュ、そして足の爪に塗るために深紅を買った。

その頃に、友達主催の飲み会で薫と出会った。薫は38歳で、緋沙子の7歳年上だった。会社員だったが、もともと美大に行っていたそうで、頼まれてグラフィックデザインの仕事も引き受けていると言っていた。緋沙子は帰宅してから、薫の名前を検索した。薫の作品が出てきた。色のコントラストが美しい作品だった。モニターの前で、無難な色に染まった自分の爪が、とてもつまらないものに見えた。

緋沙子は翌日、終業後に遅くまでやっている駅ビルに駆け込んで、普段なら買わない色のマニキュアをじっくり眺めた。メタリックなパープル、艶のあるブルー、細かなラメできらめくゴールド、深い緑。どれもこれまでの自分の選択肢にはなかった色ばかりだった。冒険しているし、攻めている色だと思った。どの色が薫の心を惹きつけるだろう、とつい考えていた。作品の色遣いからイメージできる色ばかりを手に取って、これとこれを組み合わせて塗れば、近い雰囲気になるかも、と思ったりした。

悩んで、深いネイビーとオレンジの二色を選んで、薫を誘うメールを送った。

二人の恋愛は、そうして始まった。緋沙子は、薬指にだけオレンジを、ほかの指にネイビーを塗って、薫に会いに行った。日曜が終わる頃にはその色を全部落とし、月曜には素の爪のまま会社に行った。これまで塗っていた色が全部つまらなく思えて、塗る気になれなかった。いつもの日常が、薫の登場によってまるで違う色彩に塗り替えられていくようだった。

そうして、土日に時間を作っては薫と美術展や映画に行く日々が続いた。薫も自分のことが好きなのだな、と感じられるようになった。衝動的ではなく、急がず、じわじわと温まってゆくようなスローな愛情が、二人の間にはあった。

「ずっと話せなかったんだけど」

薫の真剣な表情を見て、緋沙子は入ったばかりのビストロから逃げ出したくなった。そっと、食前酒の入ったグラスを置いた。

「僕は、実家に帰らなきゃいけないんだ。家業を継がなくちゃいけなくて。そのことを、ずっと言えなかった」

ずっと言えなかった、という言葉で、結論は見えていた。遠く離れてまでやっていけるとは思っていないし、仕事を辞めてついてきてくれ、とも言えないのだとわかってしまった。東京と北海道。どうにでもなる距離も、どうにかしようとしなければ、どうにもならないのだった。

緋沙子が、そう、わかった、とものわかりのいい返事をしようと口を開いた瞬間、目のふちまで盛り上がっていた涙がぽろぽろとこぼれて落ちた。

一年と半年が過ぎた頃、緋沙子はやっと以前と変わらない日常になじんできた。薫を思い出し、真っ暗闇のような虚しさに足首を掴まれることも、だいぶ少なくなった。

久しぶりに爪を塗ろうかと、マニキュアを並べた棚を見たら、不思議な感じがした。 淡いピンク、ピンクベージュ、深紅、ネイビー、オレンジ、銀色の混じった紫、おもちゃのような赤。どの色も全部、季節が変わるようにして、自分から通り過ぎていった色だった。

伸びるのが早い爪だから、どんどん根本から色が遠ざかって、爪と一緒に色が切り取られて、自分から離れてゆく。恋とは、そんなふうに過ぎていくものなのかもしれない、と思った。

今の自分には、どんな色が似合うだろう。どんな色で爪を染めたいのか、何も塗っていない爪を見つめながら、緋沙子は少し嬉しい気持ちで考えていた。

<著者プロフィール>
雨宮まみ
ライター。いわゆる男性向けエロ本の編集を経て、フリーのライターに。著書に「ちょっと普通じゃない曲がりくねった女道」を書いた自伝エッセイ『女子をこじらせて』、対談集『だって、女子だもん!!』(ともにポット出版)がある。恋愛や女であることと素直に向き合えない「女子の自意識」をテーマに『音楽と人』『SPRiNG』『宝島』などで連載中。マイナビニュースでの連載を書籍化した『ずっと独身でいるつもり?』(KKベストセラーズ)を昨年上梓。最新刊は『女の子よ銃を取れ』(平凡社)。

イラスト: 安福望