それを壁際の飾り棚の上に見つけたとき、九実は「あ」と小さく声をあげた。

イタリアンレストランの化粧室で化粧直しをしていて、リップグロスを直そうか、どうせいつもの女友達と飲んでいるだけだし、これからまだ飲むのだし、直さなくてもいいか、と迷っているところだった。

鏡の隣の漆喰の壁は、正方形にへこませてあり、そこが小さな飾り棚になっていた。その棚の中に、シャンパンのコルクの上についている、シャンパンストッパーを使って細工した椅子の形のオブジェが飾られていた。

こんなものを作る人はどこにでもいるんだな、と思い、九実はなんとなく気勢をそがれ、トム・フォードのお気に入りの色のリップグロスのふたを開けることなくポーチの中にしまいこんだ。

もうすぐ終電の時間が過ぎようかという時間なのに、店の中は大賑わいだった。終電など関係ない層が集まる店なのだろう。九実たちはもちろんそんな富裕層ではなかったが、30代を過ぎて同年代の友達四人で集まるとなると、良くて年に数回ぐらいが限度だ。一人は結婚しているし、一人は子供もいる。もう一人は独身だけれど、取材であちこち飛び回るように移動していて、全員の都合が合う日はなかなかない。

だから、会える日が決まると、とびきりおいしく、多少騒いでも大丈夫な雰囲気の良いお店を探すことが、九実の役目だった。九実はその役目が好きだったし、特に普段の子育てから離れて街に出て来れる友達のために、落ち着くインテリアで、見栄えだけじゃなくしっかりと舌を満足させてくれる料理を出す店を見つけてくるのが好きだった。

席に戻ると、三人の目が九実に向けられていた。

「いま、けいの彼氏の話聞いてたんだけど、九実は最近どうなの?」

「うーん、ご報告できるようなパッとしたことはないかなぁ」

九実が苦笑しても、三人の目はまだきらきらしている。

「でも、デートくらいはしてないの?」

「デートねぇ……」

頭の中で、昔の男友達が上京するというので二人で食事をしたことを思い出す。あれはデートには入らないだろう。

「まだ、誠司さんのことが忘れられない?」

どきりとする質問を、梢が投げかけてくる。母になってもまったく外見は変わっていない。

「そういうわけじゃないよ。彼、結婚したし」

「嘘でしょ!? 別れてそんなに経ってないじゃない」

大きな声をあげたのは貴子だ。

「別れてもう二年だよ。結婚願望の強い人だったし、不思議じゃないよ」

結婚して一年目の貴子は、まるで自分が結婚していることが申し訳ないみたいにしょげている。大人っぽいのに、感情に正直で、かわいらしい。貴子が愛されるのはよくわかる。

「でも、九実はつきあってる間も、少しもの足りなさそうだったよね。彼が本当に愛せる相手じゃなかったのかもしれないよね」

梢の観察眼は鋭い。いつも、どきっとするようなことを言う。

「でも、本当に愛せる相手なんて……。どこにいるのかもわからないし、もし見つかっても、その相手が私を愛してくれるかはわからないと思うと、気が遠くなる」

場の優しい空気に呑まれ、思わず本音が漏れた。梢は眼差しだけで微笑しながら、九実を見て、言った。

「九実は綺麗で仕事もできるのに、恋愛だけは不器用だよね。でも、そういう人は、そこが魅力でもあるんだよ」

それなりに酔って、タクシーで帰宅した頃には、2時を回っていた。すぐに化粧を落としたり、シャワーを浴びたりする気にもなれず、九実はとりあえずコーヒーを淹れることにした。

豆を量り、コーヒーミルで挽く。手応えがあるのが心地良い。琺瑯のポットでお湯を沸かし、フィルターに豆を入れる。

九実は、こうした「きちんとした手順」が好きだった。気に入っている蝶の模様の優雅なカップに、褐色の液体を注ぎ込む。香りがキッチンに満ちていく。猫舌なので、少し冷めるまで待ちながら、九実はさっきの店にあった、あの小さな椅子の細工のことを思い出していた。

九実の家には、無駄なものがなかった。使わないものを持っておくのは、無駄だと九実は考えていた。使うものだけでシンプルに暮らすのが心地よいと感じていたし、その「使うもの」を厳選し、いずれは好きなものだけに囲まれて暮らすのを夢見ていた。

誠司は、そんな九実とは違って、もっと人間的にゆるみがあった。もらったものは何でも、とりあえず捨てずにとっておく。読まなくなった雑誌も、捨てずに置いておく。枯れてしまった植木鉢も片付けない。いつ頃買ったのかもわからない、そしていったい何に使うのかもわからない、色褪せたプラスチックの便利グッズも置いてあった。誰かからもらったものは、あきらかに「いらないものを押しつけられた」という感じのものでも、決して捨てなかった。床にいろいろなものがあるので、掃除のしにくそうな家だ、と九実は思っていた。

穏やかな性格の誠司とは、喧嘩になることもほとんどなかったし、周りの人は誰もが誠司を「いい旦那さんになりそう」だと言った。誠司とは、四年間付き合って、プロポーズをされた。すぐに「はい」と言えなかった。誠司はそんな九実の態度を「信用できない」と言い、別れたいと言った。優しくて誠実な男は、一度決めたことを決して翻さないものなのだと、九実は何度も泣き、やり直したいと懇願を繰り返して、知った。

付き合って二年目のクリスマスに、九実の部屋でシャンパンを開けたことがあった。ボトルが空く頃に、誠司は「ペンチある?」と訊いてきた。何に使うんだろう、と思いながら、アクセサリーの修理用に持っていた小さなラジオペンチを渡すと、誠司はシャンパンのコルクストッパーで器用に針金を曲げて椅子を作った。自慢げな顔をする誠司につられ、九実は「かわいいね」と言い、それを窓辺に飾った。

九実にとって、そういうものは「使わないもの」だったし、「無駄なもの」だった。けれど、付き合っている間、九実はそれを捨てなかったし、掃除するときに丁寧にほこりを拭き取ったりもした。

誠司と別れてからは、誠司を思い出すものを見るのもつらくて、誠司に関係するものをすべて捨てた。これまでにもらった贈り物や、誠司が泊まるときのためのパジャマや、そういうどんなものを捨てるときよりも、その小さな椅子を捨てるときがいちばん迷った。

ほかのものは、誠司がこの部屋に来ていたときは「必要なもの」だった。まったく九実の好みではないのに、部屋に置くことを許していたのは、この小さな椅子だけだった。

その椅子を手に取ったとき、私は、誠司にこの部屋で、この椅子程度の居場所しか与えてなかったのではないだろうか、と考えた。いちばん必要でないものだと思っていた、その椅子のようなものが、恋愛では実はいちばん大切なものだったのかもしれない。必要なものだけで、気に入ったものだけで構成された自分の部屋が、急に空虚な場所のように見えた。

「きちんとした手順」や、「本当に必要なものかどうか」を見極める目は、恋愛には必要ないのかもしれない。恋愛は、無駄と思えるような時間の積み重ねで、その無駄こそがいちばん大事なのだから。誠司はたぶん、そのことを知っている人だったのだ。

付き合っていた頃にはわからなかったけれど、誠司は自分よりも、よほど豊かな人だった、と、九実はコーヒーを飲みながら、すでに恋愛感情ではなくなった、純粋な尊敬と情愛をもって、誠司の作ったあの椅子のことを思った。

<著者プロフィール>
雨宮まみ
ライター。いわゆる男性向けエロ本の編集を経て、フリーのライターに。著書に「ちょっと普通じゃない曲がりくねった女道」を書いた自伝エッセイ『女子をこじらせて』、対談集『だって、女子だもん!!』(ともにポット出版)がある。恋愛や女であることと素直に向き合えない「女子の自意識」をテーマに『音楽と人』『SPRiNG』『宝島』などで連載中。マイナビニュースでの連載を書籍化した『ずっと独身でいるつもり?』(KKベストセラーズ)を昨年上梓。最新刊は『女の子よ銃を取れ』(平凡社)。

イラスト: 安福望