東京新聞の11月22日付の記事「【独自】『海の上を走る列車』の跡 高輪ゲートウェイ駅の再開発工事で出土」によると、JR東日本や周辺自治体が再開発を進める地区で、日本の鉄道開業時に建設された「高輪築堤」の遺構が見つかったという。場所はかつて山手線と京浜東北線が走っていた線路跡。日本初の鉄道路線として、明治5年9月12日(新暦では1872年10月14日)に新橋~横浜間で開通した区間の遺構だ。

  • 「高輪築堤」の位置 (国土地理院 航空写真 CKT20191を加工)

開業当時は海の浅瀬に作られ、「海上を陸蒸気が走る」として名物だったようだが、後に沿岸地域の埋め立て、拡張工事の影響で埋められてしまった。この敷地は当時からずっと鉄道用地として使われており、戦後も国鉄が継承し、JR東日本もそのまま使った。

築堤は壊さずに埋められてしまったわけで、掘り返せば出てくるに決まっている。そんなに驚くべきことだろうかと筆者は思うのだが、歴史好きや土木技術研究者からは、「埋められたものが崩れずに残されていた」という意味で注目を集めているらしい。たしかに古い建造物は、時代とともに朽ちて崩れていく。遺構があったということは、当時、それだけ頑丈に建設する技術があったか、埋めたことで保存状態が良かったか。そこは今後の参考のためにはっきりさせておきたいのだろう。

■薩摩藩と軍部の反対で海上ルートへ - 台場建設の技術を応用

日本初の鉄道は旧東海道沿いに建設された。最初に着手した新橋~横浜間は海岸沿いの市街地付近。当時の新橋駅は現在の汐留付近で、海のそばにあった。大森駅付近では、エドワード・S・モースが大森貝塚を発見した。つまり、新橋から大森までの東海道線沿いが当時の海岸だった。線路の海側はすべて埋め立て地。これは品川区・大田区の人々にとって常識で、いまでもマンションや高層ビルを販売する際は告知事項に入っているし、地下数十メートルの岩盤層まで杭を打っている。

それでは、なぜ「高輪築堤」は埋め立てより先に海の上に作られたか。2012年に制作された『品川歴史館特別展 品川鉄道事始 ~陸蒸気が品川を走る~』に詳しく書かれていた。本書は鉄道開通140周年を記念して開催された企画展の図録だ。

新橋~横浜間の測量開始は1870(明治3)年。お雇いイギリス人技師の主導で行われた。建築師長のエドモンド・モレルは時間短縮のため、多摩川を境として南北の2班で測量を開始し、測量後すぐに用地買収が行われた。これは現在のような民主的な形ではない。なにしろ明治政府は官軍の武士階級である。半ば強制的だった。

しかし、こうした強権的な買収に難航した地域が高輪だった。鉄道整備優先の大隈重信に対し、軍事優先を唱える西郷隆盛の旧薩摩藩の藩邸があり、兵部省の用地もあった。交渉の余地はなく、測量も工事も着手できなかった。そこで大隈重信が「海の上に鉄道を通せ」と鶴の一声で海上ルートになった。

海の上の築堤は突飛な発想に思えるが、すでに江戸時代末期に台場(砲台)が建設されており、浅瀬の海に築堤を作る技術はあった。工事も台場の職人たちが参加している。築堤の土砂は八ツ山や御殿山から運ばれ、石垣は取り壊し予定だった江戸城の見附や櫓台の石垣のほか、未完成だった第七台場の石垣を流用した。

これらの石材は伊豆や真鶴半島で採取された良質な安山岩が使われていた。すでに組まれた石垣を持ち込んだところに、突貫工事の様子がうかがえる。石垣は築堤の下部に使われ、石と石の間は漆喰で固定されていたという。築堤は全長2654.6m、幅6.4m。なお、芝浦付近では、海を築堤で塞ぐと船の出入りができないと住民から嘆願され、4カ所は築堤を空けて橋を架けた。前述の東京新聞の記事中でも、「船で築堤を通り抜けるための水路跡などが出土した」とある。

  • 歌川広重「高輪の海岸」(出典 : 国立国会図書館デジタルコレクション)。築堤と水路がわかる

ここまでさらっと書いたが、実際は薩摩藩や兵部省との交渉、石垣の流用手続きなどで工事は大幅に遅延した。日本の鉄道開業にあたり、まず品川~横浜間が明治5年5月7日(新暦で1872年6月12日)に仮開業している。仮開業となった理由、つまり新橋~品川間の開業が遅れた理由が、この「高輪築堤」だった。

■公表は保存の目途が立ったから?

現代の建設技術に比べれば、明治・大正期の土木技術は未発達と思い込みがちだ。しかし、たとえば東京駅付近の赤レンガ高架線路の基礎には松の丸太が使われていた。長い間、その上を電車が走っていたことは驚きに値する。その杭の丸太のひとつが現在も丸の内ビルの床に展示されている。東京駅の赤レンガ駅舎復原工事でも、創建当時のレンガ壁が残され、見学もできる。

日本の鉄道開業時の新橋駅、後の汐留貨物ターミナル、現在はオフィスビルが建ち並ぶ一角には、当時の新橋駅の駅舎外観を再現した施設「旧新橋停車場」がある。ここも再開発工事で鉄道開業時の遺構が発掘された場所だ。「旧新橋停車場」は商業施設と展示施設があり、展示施設では「沼津」などの駅名が入った汽車土瓶や、改札鋏などの出土品を展示している。床の一部はガラス張りで、駅舎基礎石の遺構を見学できる。

「高輪築堤」の遺構はどうなるか。東京新聞の記事「『文明開化の象徴』、車両基地跡地から驚きの出現 高輪築堤遺構」では、JR東日本が遺構の保存や再開発への影響について、「調査結果を踏まえて検討する」とコメントしている。

「高輪築堤」の出土した場所では、高層ビルなどを建てる予定となっている。前述の通り、この地域で高層ビルを建てるためには、数十メートル地下の岩盤まで複数の杭を打つ必要がある。「高輪築堤」が破壊されてしまうおそれはある。しかし、すべては無理でも、「旧新橋停車場」のように一部を残してガラス張りの床から見せる、あるいは丸ビルのように一部を移設して展示するという方法はできるだろう。

なお、文化財保護法によると、周知の埋蔵文化財包蔵地で土木工事など開発事業を行う場合、自治体の教育委員会に事前の届出が必要と定められている。新たに遺跡を発見した場合にも届出等を行うよう求められている。届出を受理した教育委員会が協議し、遺跡を現状のまま保存できない場合は事前に発掘調査を行って遺跡の記録を残し、経費については開発事業者に協力を求めると定められている。

東京新聞の記事を読むと、JR東日本が「昨年4月、品川駅改良工事で石垣の一部を発見。高輪ゲートウェイ駅西周辺の再開発で掘削したところ、さらに石垣が見つかり、今年8月に調査を始めた」とある。すでに文化財保護法に則って届出を実施し、港区教育委員会も調査に参加している。報道まで半年以上も経っており、ある程度調査が進み、公開して差し支えないタイミングになったようだ。

  • 「高輪築堤」が出土した高輪ゲートウェイ駅付近の再開発エリア(編集部撮影)

  • 石垣の一部が姿を現しているところも(編集部撮影)

往時をしのぶとか、歴史ロマンの要素だけでなく、土木技術史としても有効な資料であれば、一部分でも保存して見せる工夫はできるはず。どのように対処するか、記事に対する世間の関心度を見て決めるつもりかもしれない。