ラジオ業界に関わる様々な人を掘り下げる連載「ラジオの現場から」。記念すべき1人目に登場するのは放送作家の鈴木おさむ氏だ。19歳で作家になり、若手時代はニッポン放送でたくさんの経験を積んだが、そこからつながった縁がテレビの世界、そしてTOKYO FMでのパーソナリティ就任へと彼を誘(いざな)っていく。今回はそんな不思議な縁に関する秘話を聞いた。

■半年間書き続けた放送されない2時間の台本

  • 鈴木おさむ氏

    鈴木おさむ氏

――駆け出しの放送作家として踏み入れたニッポン放送での日々は刺激的だったんですね。

この話はいろんなところでしているんですけど、槇原(敬之)さんには『君は僕の宝物』という名盤があるんですよ。「遠く遠く」が入っているアルバムで。それが出た時に、ANNの1部を単発で担当したんです。放送の最後に、風船に往復ハガキをつけて、ニッポン放送の屋上から飛ばしたんですね。ハガキに「これを拾った人は送り返してくれ」みたいなことを書いて。夜中の3時ですよ? 先輩の企画で20個ぐらい飛ばしたんですけど、正直、僕はそういうのがとても嫌いで、バカにしてたんです。「そんなもの返ってくるわけないだろう」って。

そしたら、次の週に静岡の海岸でそれを拾った人からハガキが戻ってきて。しかも、番組を聴いている方だったんです。最終的に2通返ってきたんですよ。それで自分の中で目が覚めたところがありましたね。やってみなきゃわからないし、こういうことが企画なんだなって。自分の中で「そんなことありえないだろう」と潰してたらダメなんだなっていうのは、あの番組でものすごく教わりました。

――ANN以外で、チーフ作家を担当したのは『鶴光の噂のゴールデンアワー』だそうですね。半年間、放送されない台本を書き続けて鍛えられたとか。

「こがねちゃんクイズ」というコーナーがあったんです。クイズを10問出して、その正解数によってリスナーがお金をもらえるという企画なんですけど、番組にはチーフ作家のほかに、そのクイズの作家もいて、それを僕が週に3日分担当していました。毎日、新聞を読んでクイズを考えて、それ以外にも電話の仕込みとか、雑用もいっぱいやるんです。(笑福亭)鶴光師匠にも可愛がっていただいていました。当時、ニッポン放送のメインの番組でしたし、やっぱり僕はチーフ作家になりたかったんです。

そうしたら、野々川さんという方から「毎週水曜日に使われない原稿を書いてこい」と言われたんです。それから、毎週火曜日の夜から朝までかけて、次の日にしゃべりそうな原稿を2時間分書いてました。ありがたいのはそれを野々川さんが添削してくれたことです。“てにをは”から何から毎週毎週直してくれて。

で、半年経った時に、野々川さんが鶴光師匠に「おさむをデビューさせます」と言ってくれたんですよ。当時は22~23歳。それから破られてなければ、ニッポン放送のワイド番組のチーフ作家に関しては僕が最年少記録を持っているんです。野々川さんが「おさむは半年間、実は原稿書いてました。だから、自信を持ってデビューさせられます」と言ってくれてうれしかったですね。

■片岡飛鳥氏から「『とぶくすり』をやらないか」

  • よゐこの有野晋哉(左)と濱口優

――台本を半年間書き続けていたという話に近いですが、よゐこの放送されないデモテープも作り続けていたそうですね。

よゐこはANNのオーディションを受けたら、当時のプロデューサーさんにボロクソ言われたらしくて(笑)。それで、神田(比呂志。ナインティナイン、福山雅治、aikoなどの『ANN』を担当)さんに紹介されて、「毎週オーディション用のテープを一緒に作ろう」という話になり、よゐこと半年ぐらいデモテープを作ってましたね。たった1回のANNをやるために、毎週1回集まって。ひどい話ですよね(笑)。それができたのは神田さんの情熱だと思います。「頑張ってやろうよ」と言ってくれて。それでよゐことは仲良くなったんです。それが別の仕事につながって。

――というのは?

よゐこが週替わりの金曜2部を担当することになって、前日の木曜日深夜にニッポン放送の会議室でコントを収録してたら、警備員の人から電話がかかってきたんです。「フジテレビの片岡飛鳥さんがお越しです」と。片岡さんはナインティナインに当時始まる前だった『とぶくすりZ』の話をしに来たのに、警備員が間違えて僕らの会議室に電話をつないできたんです。しかも、ナインティナインは遅刻していて。

僕は片岡さんの名前を知ってたので、「どうぞこちらでお待ちください」と会議室にお通ししたら、僕とよゐこが話しているのを見て、「よゐことこうやって同年代で話している作家を初めて見た」と驚かれたみたいで。それで「『とぶくすり』をやらないか」と誘われたんです。それが『めちゃモテ』や『めちゃイケ』につながっていくんですけど。