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【答え】浅間高原自動車テストコース
答えは1957年にホンダ、ヤマハ発動機、メグロなど19社の出資によってコースが完成した「浅間高原自動車テストコース」です。名前の通り、群馬県浅間山の麓にできた一周9.351kmの火山灰と砂利道でできたクローズドコースで、同年には「第2回全日本オートバイ耐久ロードレース」(通称:浅間火山レース)が開催されています。ちなみに第1回は、その2年前に高原内の一般道を閉鎖した一周19.2kmのコースで行われた耐久ロードレースでした。
コースは「口を開いた蛇が首を後ろに振り向けた形」と称されました。スタート直後のカスミのカーブやファーストファイト、セカンドファイト、センセーショナルストレート、小森カーブ、大森カーブなどと呼ばれたポイントが大小20のコーナーでつながれていて、コース幅はホームストレッチが20m、その先から15m、8mとだんだん細くなるレイアウトでした。メインスタンドは礫岩を積み上げた質素なものだったといいます。
現在のロードレースは舗装路で行われるのが当たり前ですが、浅間高原自動車テストコースは完全なオフロードコースと呼ぶべきもので、二輪車の性能を試すのにはぴったりだったのかもしれません。
コースを使用した浅間火山レースは1957年と1959年に行われました。また、全日本モーターサイクルクラブ連盟主催の「全日本クラブマンレース」が1958年と1959年(浅間火山レースと併催)に開催されています。
レースは基本的に、125cc以下のウルトラ・ライトウェイトクラス、250ccのライト・ウェイトクラス、350ccのジュニア・ウェイトクラス、500ccのセニア・ウェイトクラスという4つのクラス分けで開催され、出場車としては当時の最先端だったホンダ「ベンリィ」や「ドリーム」、ヤマハ「YA-1」や「YA-A」、スズキ「コレダ」、メグロ「RZ」、丸正「ライラック」外国車ではBMWやBSA、トライアンフなどがエントリー。ライダーでは天才と呼ばれた伊藤史朗や、のちに四輪レースで活躍した北野元、砂子義一、高橋国光、生沢徹などの各選手がそれぞれのクラスで活躍しました。
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1959年の浅間火山レースのウルトラ・ライトウェイトクラスでホンダ「SS92」を駆り、ワークスチームのホンダ「RC142」を破って優勝した北野元選手(中央)。そのダイナミックな走りと美少年ぶりが、名字が同じ北野という『汚れた英雄』の主人公のモデルになったといわれた(ホンダ水沼平二氏提供)
国産二輪車の性能向上に寄与した浅間火山コースですが、未舗装であることの危険性が指摘されて二輪レースで使用されることはなくなり、代わりに日産自動車や三菱自動車工業、スバルなどから海外のラリーに参加するためのダートのテストコースとして重宝されました。現在はコースの大半が所有者の群馬県に返却されていて、浅間牧場の牧草地となっていますが、大森カーブと小森カーブのあたりは「浅間サーキット」として残されており、モトクロスやダートトライアルのコースとして使用されているようです。
当時の浅間火山レースの模様は、大藪春彦氏の『汚れた英雄』の第1巻の冒頭でも描かれていて、その雰囲気を感じることができます。
それでは、次回をお楽しみに!