"茶の湯"の所作や心得、教養を学び、また癒しを得ることで、ビジネスパーソンの心の落ち着きと人間力、直観力を高めるためのビジネス茶道の第一人者である水上繭子。本連載では、水上が各界のキーパーソンを茶室に招き、仕事に対する姿勢・考え方について聞いていく。

第11回は、「WHITE PIGEON」ブランドを立ち上げたウエディングドレスデザイナー、河野祥子さんにお話を伺った。残布を生まないというコンセプトの下、和裁の技術で長方形の布全てを使い切るという独自の手法で独創的なドレスを生み出し続けている。

  • 「WHITE PIGEON」の河野祥子さん(左)と、聞き手の水上繭子(右)

風土と繋がる唯一無二のドレスづくり

「WHITE PIGEON」は、日本全国の染織の産地から生み出される一枚の反物から、和のオートクチュールドレスを作るブランド。お客様との会話の中で縦横無尽に作られていくそのシルエットは、独創的で唯一無二のものだ。

そして、「WHITE PIGEON」は残布を生まないことも大きな特徴。職人が織りなす伝統・伝承の織物を余さず利用するその姿勢は、職人への経緯とともに、人間・社会・地球の持続可能な発展を目指すものといえる。

だが河野さんが「WHITE PIGEON」を立ち上げるまでの道のりは、決して順風満帆ではなかった。紆余曲折を経て「WHITE PIGEON」にたどり着くストーリーを、まずは聞いていきたい。

ニューヨークで気づいた日本文化の魅力

大分県別府市で江戸時代から続く温泉旅館に生まれた河野さんは、子供のころ、日本文化や地域の伝統を忌み嫌っていたという。そんな社会から逃れたいこともあり、ファッションデザイナーを目指して上京。そして女子美術大学を卒業する。

だが始めは望んだ就職先を得られず、まず帝国ホテルでホテリエの仕事に就く。こうして2年ほど順調に仕事を続けていた河野さんだが、ここで転機が訪れる。提携関係にあったニューヨーク・マンダリンオリエンタルホテルでの一年間の研修を勧められたのだ。

「ファッションの仕事を志したときから、ニューヨークにはずっと行きたいと思っていました。ありがたい機会だし、最終的な決断をする前にまず個人的にニューヨークに旅行に行ったんです。でも、私も夢を諦めきれていませんでしたから、ついでにファッション工科大学 (FIP)を見学しました。そうしたらデザイナーとして勉強するためにニューヨークに来たいという想いが強くなってしまったんです」

こうして河野さんは22歳で帝国ホテルを退社し、単身渡米。ニューヨークで、夜はFIPの授業、昼はスカーレット・ヨハンソンなどのドレスを作っているオートクチュールのアトリエで下働き、という生活を始める。これが河野さんのデザイナーとしての出発点となった。

「ですが、ニューヨークで仕事をするうちにある違和感を覚えました。私は日本人で、他にも中国人やベトナム人などさまざまな人が働いているのですが、アジア人は白人社会の中で指示を受けてする仕事しか与えられないのです。私は日本文化の良さ、アジアのすばらしさを知っていましたから、クリエイティブな仕事の一番端麗なところも欧米人が決めるという仕組みを知って『そんなのヤダぞ!!』……と思ったわけです」

河野さんは、ニューヨークで欧米が先導するファッションの世界に触れることで、日本の風土や人の温かさ、日本文化の魅力に開眼した。

「私は、実力をつけて再びここで勝負するために一度日本に帰ろう。本物になってまた戻ってこようと思ったんです。私に才能があるかどうかはわからないけど、このすばらしい日本文化を伝えるための情熱は燃やせるという覚悟が決まったので、日本に帰国したんです」

  • ニューヨークでの生活で逆に日本文化の良さに気づいたと話す河野さん

帰国、転職、そして独立

こうして日本に戻った河野さん。「まずはデザイナーの仕事をしないと同じ土俵には上がれないと面接向かった結果、ニューヨークで磨かれたプレゼンテーション能力で多くの企業に受かる。その中から選んだのは、当時ベンチャーとして起業したばかりのブライダルデザインの会社だった。

「選んだ一番の理由は給料が良かったことです。自分の仕事を安売りするのがイヤだったんですよ。当時、ニューヨークで人気ブランドの初任給は30万くらいでしたが、日本では15万程度でした。これでは東京で生きていけないじゃないですか。そして、その会社は縫製を台湾で行っていましたから海外出張にも行けるし、デザイナーがいないからデザインもやってほしいということで、3拍子揃っていたんです」

その労働環境はいまでいうブラック企業のようだったと河野さんは振り返るが、学びは多く、仕事も面白かったという。だがここでも河野さんはある種の疑問を感じる。

「ベンチャーとはいっても会社の方針はあって、海外のデザインを日本人向けに変えて売るというのが当時の売り方でした。ですが台湾の工場でクラフトマンシップに触れて、"人件費や労働面で不当なことをしていると黙認しながらモノを作るのは、デザイナーとしてどうなのか?"という社会問題のほうに今度は興味を持ってしまったんです」

そんなころ、雑誌「25ans (ヴァンサンカン)」に貸し出したウェディングドレスがパリの支配人の目に留まり、DMの裏面で使われることになる。次にエンパイアドレスを作って雑誌「anan」に貸し出したところ、こちらも大きな反響を呼び、BtoCの受注はどんどん伸びていった。

「飛ぶ鳥を落とす勢いでした。今の私ならそのまま会社にいたと思いますが、野心家だった私は"もっと上にいけるんじゃないか"と思い、1年で欧州のブライダルドレスを扱う会社に転職したんですよね。ですが、取り扱う規模が大きくなったことで、より不当労働を目の当たりにすることになったんです。いまはサステナビリティが重視され始めていますが、当時経済成長の真っただ中にあった中国などの労働状況はひどかったんです。欧州の文化を組み入れながらも、日本や他の国の文化をリスペクトしていくことがデザイナーにも必要ではないか、そう考え始めました」

だが、資本主義の世界でそのような意見はなかなか通らない。結局、河野さんはその会社も1年で退社。独立の道を歩むことになる。だがそのとき河野さんはまだ26歳。大口の受注を得ることもできず、安いドレスを批判しつつも、インターネットで安いドレスを作って生活していくことになった。

「でもそんな生活の中でインターネットのことをいろいろと勉強することができました。SNSの効果的な使い方も学びましたし、インドネシアのバティック(ろうけつ染め布地の特産品、日本では更紗の一種)を扱っていたので、価格や売り方もわかりました」

日本の伝統・伝承産業との出会い

そして東日本大震災が起こった2011年、福島県川俣町の生地に出会う。そしてこの薄くて軽いオーガンジーは、縫製がうまくいかず、検品に難があるため、一般の企業には卸しにくいものだということがわかった。「被災者のためになにかしたい」と思った河野さんは、福島行きのバスが動くようになると同時に見本の反物をすべて購入。そして"一枚の反物から無限の形が生まれるユニバーサルデザイン"という着想を得た河野さんは、「WHITE PIGEON」を立ち上げることになる。

「それでも最初はたくさんの失敗をしました。織物が納期通りに上がってこない、金額も最初の提示より上がる……立ち上げ当時は争わずにそれを受け入れてしまっていました。ですが私にはお客様に服を届ける責任があります。お客様のためを考えて接客してくれる職人さんとしか付き合うのをやめました。これによって、日本で一番高いストールを、日本で一番売る会社に成長したことは、ちょっとした自負です」

  • 「WHITE PIGEON」のストールを試着した水上

気持ちを晴れやかにするものが文化を作る

伝統工芸を生かして、独創的でサステナブルなドレスを作り続ける河野さん。今回、茶道を体験してもらい、どのような感想を抱いたのだろうか。

「茶道と私のやっている伝統工芸の世界には通じるものがたくさんあると思います。茶道そのものが室町時代の最先端芸術であり、『予約が取れないレストラン』だったと思います。そういった華やかなパフォーマンスは文化を育てるし、武士たちは大企業で働く人たちのような感覚を持っていたと考えます。茶道は、そんな社会の中で、茶人が人の安らぎや浄化させる心、花を持たせる気遣いを汲み取って提供するサービスだと思うんです。WHITE PIGEONのお洋服もお客様の気持ちを晴れやかにするものでありたいなと思っています。それが結局、文化を作っていくことに繋がると私は感じています」

衣食住にかかわることは茶道と似ていると水上は思う。お茶の教えは「茶を点てて飲む」だけだが、茶室に意味があり、お花に意味があり、道具に意味がある。こういったところが、伝統工芸の生地に共通する部分があると感じた。

  • インタビュー中には実際に茶道も体験してもらった

最後に河野さんは、コロナ禍を生きる若いビジネスパーソンに向けて、次のようなメッセージを贈る。

「日本の企業はそんなに簡単に『やめろ』といいません。とにかく会社の中で自分のやりたいと思ったこと、会社にとって良いと思うことをやるべきです。人の言うことを恐れない人が集まっていけば、いまよりずっと住みやすい社会ができます。まずは一歩踏み込んで自分の意見を言っていくことが、より良い日本を作っていく、私はそう信じています」