"せともの"の街、愛知県瀬戸市。この街は火の街・土の街と呼ばれ、昔から真っ白な陶土や自然の釉薬が採れるため、やきものの産地として栄えてきました。「ものをつくって、生きる」そのことに疑いがない。それゆえ、陶芸に限らず、さまざまな"ツクリテ"が山ほど活動する、ちょっと特殊なまちです。瀬戸在住のライターの上浦未来が、Iターン、Uターン、関係人口、地元の方……さまざまなスタイルで関わり、地域で仕事をつくる若者たちをご紹介します。

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vol.18 RASHIKS・田中一成

  • 「株式会社RASHIKS」代表取締役。1984年名古屋市生まれ。理学療法士、社会福祉士、介護支援専門員。三児の父。

2019年から2年弱で瀬戸市内にリハビリデイサービス2カ所を開所。訪問看護ステーションも立ち上げ、2021年11月には就労支援施設もつくり、ここから福祉を軸にしたまちづくりまで乗り出そうとしている社会起業家がいる。

「RASHIKS」代表の田中一成さんだ。障がい、病、加齢などを受け入れ、自分“らしく”生きるひとを増やしたい。そんな想いを込め、豊田市内の病院で12年間勤務後、2018年に独立した。一体どんな未来を描き、突き進んでいるのか、お話をおうかがいしました。

「RASHIKS」田中一成さんとは?

  • いつも笑顔が絶えない田中さん。

2019年、瀬戸市内に疾病や障がいを抱えるひとが、生活や社会に復帰するために通うリハビリのデイサービス「リハビリテーション颯(そう) せと」をオープン。

2020年、自宅をはじめ、高齢者向け住宅や有料老人ホームなどへ訪問して看護する「らしくす訪問看護ステーション」をオープン。

2021年4月には、瀬戸市内2号目となる「リハビリテーション颯 みずの」をオープン。さらに、同年11月には、障がいがあっても、稼ぐをコンセプトにする事業所「リハスワークせと」がオープン予定。

「RASHIKS」代表取締役の田中一成さんは、2年足らずという短期間で、これらの事業をぐいぐいと進めている。

取材時には、「最近、ようやく経営に専念できるようになってきました!」と嬉しそうに語り、これだけの新規事業を、日中は自身もスタッフとして働きながら進めてきたというから、驚く。

  • 「リハビリテーション颯 せと」のスタッフと。

田中さんの経歴を振り返ると、非常にまっすぐに理学療法士の道へと進んでいく。中学生の頃、ゴルフ部に所属し、全国大会をめざして頑張っていた頃、怪我をしてどん底へ。そんななか、心身ともにサポートしてくれたのが、リハビリを担当してくれた理学療法士だった。

それから興味を持ち、高校卒業後の2006年に藤田保健衛生大学リハビリテーション専門学校へ。卒業後は、豊田市内の病院で理学療法士として、脳卒中や脳血管疾患を患った方、膝や股関節の手術術後のリハビリ外来などを担当し、12年間働いてきた。

とにかくブレない人、それが田中さんといえる。

安定の病院勤務を辞め、RASHIKSを立ち上げるまで

非常に計画的に歩んできたようにみえる田中さんだが、もともと起業するつもりは、まったくなかったという。

「定年まで、同じ病院で勤め上げるつもりだったんですよね。性格的には、パッパと行動する割には、安定志向なんです。それなりの給料ももらって、家庭での時間もとれたので、何を望むということもなかったですね」

そんな田中さんに、何があったのか?

「きっかけは、勤めていた病院内での新規事業『リハビリテーション颯』の本部から、スーパーアドバイザーとして、働かないかと引き抜きの話があったことでした」

田中さんにとって、病院での勤務時代はずっと順風満帆というわけではなく、働き始めの7年間は、自分のなかでの“暗黒時代”だった。最初の頃は仕事の業務でいっぱいいっぱいで、人間関係がうまくいかない時もあった。

そんななか、30歳手前のある日、病院内で新規事業を任されることに。それまでは、田中は大丈夫? と心配されるような人間だったというが、上司のひとりが「一成なら、やれると思う。やってもらいたい」と強く信頼してくれたことにより、才能が開花する。

「こうした立ち上げは初めてだったんですが、小規模だったので、自分の判断で動けることも多く、スピード感をもって進められて、経営も安定させることができた。その時に、自分は組織をまわしたりすることが、得意な領域だということがわかったんです。そこに評価をしてくださる方がいて、純粋に嬉しかった。自分の可能性は、まだまだあるのかな? と思えるきっかけになりました」

ただ本部があるのは東京で、子どもも生まれていたので、辞めるまでの決断はできなかった。

そんなある日、仲の良いいとこが37歳で亡くなってしまう。急性心不全だった。

「瀬戸で自分の会社立ち上げていた、いとこだったんです。亡くなる前に、居酒屋で一成も、病院とかおらんと、一生は一度なんだから、小さい組織でもつくったらどうだ。そこでしか見えない景色あるだろうから、チャレンジしてみろよ! じゃあな! って帰っていったんですよね。その景色と言葉が残っちゃって」

そこから、田中さんは、モジモジしたまま、病院で安泰を手に入れ、踏み出さない。そんな自分を見つめ直していく。

「子どもが大きくなって、何かにチャレンジしたい、と思った時に、一歩を踏み出せずにいた父親よりも、うまくいくかわからなくても、一歩を踏み出した父親になっていたい。説得力のある父親になりたい。そう思い、前に進みました」