芳枝さんのもとに届いた企画書

  • 芳枝さんのもとに届いた企画書

さらに、ふたりから芳枝さんのもとに企画書が届く。

芳枝さん:もともと旅館だったし、ゲストハウスにしたらどう? というお話をいただきました。商店街をひとつの宿泊施設に見立てて、食事は商店街で、お風呂は銭湯に行ってそんなふうにできたらいいよね、と。その時の企画書も、まだ持っています。

でも、結局、誰がどう運営するの? という点が、難しくて……。私が移住してやるか? といったら、簡単に決断できなくて。すごく悩んだのですが、その時はふんぎりがつきませんでした。

ちょうどその頃に、芳枝さんにお子さんが生まれ、一旦、保留状態になった。

  • 趣のある「松千代館」の室内

その間に、深澤さんは、岡崎で開催された、まちなかに実在する遊休不動産を対象として、ビジネスプランを創り出す短期集中の実践型スクール「リノベーションスクール」に地元の専門家として呼ばれ、事業計画から一緒に携わることを経験。それをきっかけに、事業収支を考えながら設計に携わるようになる。

思考が広がり、いいパートナーがいれば、「松千代館」がもっと進むんじゃないかと、大学時代の研究室の先輩であり、「愛知工業大学」の益尾孝祐先生に声をかける。「益尾さん、めっちゃいい物件があります。拠点持ちませんか? まちづくりの拠点を」と。

  • 益尾孝祐(ますお・こうすけ)さん。1976年大阪生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。「アルセッド建築研究所」にて、東京を拠点に、建築設計によるまちづくりに取り組む。2020年度から「愛知工業大学」建築学科講師。リアルなフィールドでの研究的実践を積み重ね、都市・地域再生のための実践的研究を行っている。愛知県名古屋市在住

益尾さんは、空き家の物件に携わると、設計を仕事にしなければいけない、というジレンマを長年感じていた。2020年にはフラットな立場で社会的な課題に取り組みたい、と転職し、大学での新たな道をスタートさせていた。

益尾さん:これまで、設計事務所で風の人みたいな形でいろんな地域に関わってきたけれども、実際には地域に根を張った取り組みがずっとできてこなかったんです。そんななか、任意の団体をつくって、一緒にやっていきませんか? と声をかけていただいたので、それは非常にありがたかった。

名古屋は区画整理された市街地が多くて、戦後の復興ですから、古い歴史的な町並みが少ないんですね。そんななか、名古屋から一番近くて、実はかなり穴場のような形で、尾張瀬戸はめちゃくちゃ価値があるところだなと感じていました。

  • 愛知工業大学リノベ部のみなさんと「松千代館」片付けの様子

益尾さん:とりわけ瀬戸市内の「せと末広町商店街」と、「せと銀座通り商店街」は、伝統的建造物群保存地区でも、おかしくないほど、昔の町並みがきれいに残っている。そのなかでも、ひときわポテンシャルが高く、このエリアの原型だろうな、というのが「松千代館」。見た時に『これは!』と一目惚れしてしまいました。

益尾さんの性格をよく知っていた深澤さんが期待していた通り、物事は一気に動いた。 益尾さんが授業の一環として、瀬戸を訪れるように。

さらに「松千代館」の片付けは、学内のリノベ部に声をかけると、10名以上の学生たちが参加してくれた。

空き家から“地域の学び場”へ

  • 学生シェアハウスになる予定の「松千代館」の部屋の一部

そのなかのメンバーには、数名が瀬戸に興味を持ち、住みたいと言ってくれるほどの学生も現れた。

そこで「松千代館」2階を学生向けのシェアハウスにする案が出て、2021年11月、芳枝さんに事業計画を提案。メンバーで話し合い、1階を「レンタルスペース」として活用する方向で進むことも決まった。

シェアハウスにするとなると、自ずといつから住めるのか? を決める必要が出て、今年9月には学生が住めるようにしたい、という方針へ。そのためにはお風呂やキッチンで使用する水まわりに500万円以上の資金が必要だった。そこで、今年6月にはクラウドファンディングによる資金調達への挑戦が始まった。

  • 「松千代館」再生後のイメージ

2021年9月から、地域の「学びの場」として、1階は広く地域の方に使ってもらえる「ギャラリー」と「レンタルスペース」、2階は学生さんが住みながら学びを得る「学生シェアハウス」としての運用が始まる。1階の使い方は、常駐できるメンバーが不在のため、模索しながらのスタートとなる。

芳枝さん:松千代館は、私にとってはおばあちゃんの家ではありますが、再生の会としては、瀬戸のやきものの産業の姿を伝える、産業遺産としての価値があると考えています。地域の方のご意見も参考にしつつ、意義のあるものとして未来に残していくのがベストだと思っています。

なので、今知っている情報だけで、「松千代館はこうあるべき」という結論を出すことは時期尚早だと思っています。まずは使える形に直し場を開くことから始めて、新しい出会いや、課題に対して、臨機応変に対応しながら、より継続性のある形を見つけたいと考えています。

拠点をつくりたい。そう思った時、「松千代館」だった

  • まるでセットのような「松千代館」の前にて

芳枝さんは、普段は、表立って自身が前に立つことはない。あまり自分自身が前に出るタイプではなかったが、手に職をつけつつ、人の役に立ちたい、と考え出したところがデザイナーとしてのスタートだったという。

そんな芳枝さんが、こうして「松千代会再生の会」メンバーに押され、一歩を踏み出した理由には、子どもの将来を考えたことも大きかったという。

芳枝さん:人と深くつながるって、すごく難しいことなんですよね。東京に住んで思うのは、引っ越そうと思えば、引っ越せちゃう。拠点といえる場所をつくるが難しくて……。家族だけのつながりでは、子育てが偏ってしまうかもしれない。仕事柄、自分だけの世界にこもってやってきたけど、この壁をこえなきゃいけない時だなと感じていました。

そんななか、つながりを持てる場所として活動の拠点をつくりたい、という想いが出てきたという。

芳枝さん:私にとっての拠点はどこか考えた時、私のひとつのルーツでもある『松千代館』だったんです。子どもにデザイナーとして社会と向き合っている自分の姿を見せていきたいですし、生きていくのは、どこでもいいよ、とも思ってほしいですね。

メンバーと一緒に進めることについて、「一人ではできなかったので、心強いです。つながりの輪が広がっていくのを感じ、わくわくします!」と語る芳枝さん。

チームメンバーで支えあい、大きく前へ踏み出しはじめた。