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【答え】「多摩川スピードウェイ」のメインスタンド
答えは1936年5月に誕生した日本初の常設サーキット「多摩川スピードウェイ」のメインスタンド跡です。
まずは時代を大いにさかのぼって、自動車レースと日本人の関係という点から見ていきましょう。
1907年(明治40年)、英国ブルックランズで開催されたGPレースに出場したホテルオークラ創業者の大倉喜七郎が2位入賞を果たしたことが、日本人が自動車レース史に名を残した最初の事例と言われています。以降、日本国内でも目黒競馬場や洲崎、鶴見、砂町などの埋立地、代々木練兵場や立川飛行場などの軍用地を使用したレースがあちこちの特設コースで開催されました。
これらのレースの強力な推進役を務めたのが、日本自動車競走倶楽部を立ち上げ、のちのイースタンモータースの創業者ともなった藤本軍次でした。米国シアトルの日系移民だった人物で、報知新聞社とともに常設サーキットの設立を企画しました。
藤本らは多摩川にあったオリンピア球場跡地に目をつけ、その所有者だった東京横浜電鉄(現・東急)を口説き落として「多摩川スピードウェイ」を建設します。当初は「オリンピアスピードウェイ」と呼ばれていました。
完成したのは、225Rと130Rを結ぶ一周1,200mの左回り・オーバル(楕円)形状のコース。当時は自動車レースといえばオーバルコースが当たり前の時代でした。ダートのコース幅は20mでした。
敷地内の最大収容人数は3万人といわれます。長さ300mのメインスタンドが多摩川の堤防上に設置されていて、そこだけがつい最近まで残されていたのです。
数年前まで川崎市中原区の多摩川河川敷の堤防部分に残されていた多摩川スピードウェイのメインスタンド跡(写真左)。後方は武蔵小杉のタワーマンション群。写真右はスタンド部分が撤去された2024年現在の様子。マンション群の数も増えた
1936年6月7日に開催されたオープニングレースは「全日本自動車競争大会」と銘打たれ、最新鋭のベントレーやブガッティ、フォード、インヴェクタなどの外国勢に混ざって「オオタ」や「ダットサン」(現・日産自動車)の国産ワークス勢、さらにはホンダの創業者である本田宗一郎がメカニックとして搭乗した「浜松号」などが参加しています。ちなみに浜松号はレース中に転倒事故を起こし、マシンから放り出された本田は目を痛めるというケガを負うことになりますが、この時に感じたレースの必要性や勝利への欲求が、のちのホンダの躍進につながったのです。
また、小型レース杯でオオタに敗れたダットサンは、同年10月に開催された第2回で必勝を期し、747ccDOHCの過給機付きエンジンを搭載したハイパフォーマンスモデルを投入して雪辱を果たしました。その時のレースの様子は、2024年10月に日産本社ギャラリーで行われた「NISMO40周年記念式典」で上映されました。
コース自体は1938年になると日中戦争の影響で使用が停止され、さらに戦後は野球場に改装されてレース場としての歴史を終えました。その後はプロ野球「東映フライヤーズ」や「日本ハム」の2軍グラウンドとして使用され、その後も市民のサッカー場や野球場として使われています。
2016年には跡地の保存と情報発信を担う「多摩川スピードウェイの会」が開設80周年を記念するプレートを階段部分に設置しましたが、2021年になって国交省が新堤防設置のためにスタンドの取り壊しを決定し、現在ではその姿を見ることができなくなりました。
それでは、次回をお楽しみに!