誰かを責める心理や対立構造は、貧困の解決に役に立たない

日本の貧困が16.1%、すなわち、6人に1人ということを話すと、多くの人から「いったい、なんで、こんなことになったんだ」という怒りのコメントをいただきます。

貧困対策を打ちたくても、政府の支出に対して、収入が6割程度しかなく、支出の4割は借金で賄われているという話をすると、必ず、「誰がこんな借金を作ったんだ」と罵声が飛びます。

若者は、「俺たちの払っている税金と社会保険料は、全部、年寄りに使われて、俺たちが年を取るころには何も残っていない」と、社会保障制度と政府への不信感を露わにします。年寄りは、「年金生活者から、もっと消費税をとるつもりか」と、憤慨しています。

このような誰かを責める心理や対立構造は、貧困の解決にあまり役に立ちません。何故なら、「責任」なぞ誰も取れないし、取ってもらっても、何の解決にもならないからです。

仮に、政治家が「責任」をとって、政界から引退したって、国の借金はなくなりません。

仮に、高齢者が自分たちの年金権を放棄したって、年老いた親を養わなくてはならないのは、結局、若者です。公的扶養から、家族の扶養に代わるだけです。もし、明日から、あなたの親の年金がなくなって、あなたが両親の生活費の仕送りをしなくてはならなくなったら。そんなシナリオは誰も描きたくないでしょう。高齢者の方々も、財政が破たんすれば、あなたの年金はなくなるし、現役世代の負担を増やせば、あなたの子どもたちの生活が苦しくなり、あなたの孫たちがますます我慢を強いられるのです。

結局のところ、いま、日本は全国民が負担を担わなくてはならないのです。それから逃れるためには、日本から逃げ出すしかありません。でも、日本に見切りをつけ、負担が低いからといって余生を外国で過ごす人は実際にはどれほどいるでしょうか。日本に住み続けるのであれば、負担増加の覚悟を決め、その上で、一番必要なところに資源を配付し、守るべきものは守る決断をしていかなくてはなりません。

国民として守らなければならないものは何か?

国民として、頑として守らなくてはならないものは何でしょう?

例えば、すべての国民が医療保険にカバーされることを謳った「国民皆保険」。必要な時に医療サービスを受けることができる。この制度を1961年に築き上げたことは、日本の戦後の発展の中の快挙です。しかし、現在、26.5万世帯の人々が国民健康保険の保険料を払うことができずに、無保険となっています。そうなると、医療サービスは全額自己負担となります。

例えば、生活保護法で保障する「健康で文化的な最低限の生活」。すべての国民が、最低限度に許容範囲の生活水準を保障される。これは、引退前の所得の何割を保障するべきといった年金の所得代替率の議論とはまったく異なるものです。引退前の所得が100万円の人も1000万円の人も、同じ「金額」、老後に貧困にならない程度の年金を保障するということです。

例えば、すべての子どもに高等教育の機会を提供すること。もちろん、本人の希望で高等教育を選択しないのであれば別ですが、金銭的な理由で高校中退したり、高校後進学することをあきらめることがないようにする。これは、子どものためだけでなく、国として必要なことです。子どもの貧困対策は、その子が成人となったときに支払う税金や社会保険料で十分にペイバックするからです。国が少しの投資を子どもにすることにより、その子がもつポテンシャルがフルに発揮でいるようになるからです。逆に、貧困が理由で子どものポテンシャルが早く摘まれてしまったら、国としては損失です。

これらは、アイデアにすぎませんが、ひとつ、確実に言えることがあります。

貧困の「悪者探し」はやめましょう。今、私たちに必要なのは、誰が責任をとるべきか、誰が悪いのかといった議論ではなく、国民みんなが負担をシェアし、最低限、何を守っていくかの議論です。対立ではなく、対話なのです。

(※写真画像は本文とは関係ありません)

<著者プロフィール>

阿部 彩(あべ あや)

首都大学東京 都市教養学部 教授。MIT卒業。タフツ大学フレッチャー法律外交大学院修士号・博士号取得。国際連合、海外経済協力基金を経て、1999年より国立社会保障・人口問題研究所にて勤務。2015年4月より現職。厚生労働省、内閣官房国家戦略室、内閣府等の委員歴任。『生活保護の経済分析』(共著、東京大学出版会、2008年)にて第51回日経・経済図書文化賞を受賞。研究テーマは、貧困、社会的排除、生活保護制度。著書に、『子どもの貧困』『子どもの貧困II』(岩波書店)、『弱者の居場所がない社会』(講談社)など多数。