2005年、世界遺産に登録されたことでもおなじみの知床は、毎年流氷がやってくる地であり、野生動物や植物の宝庫でもある。2008年3月上旬、知床半島北西岸のオホーツク海に面する流氷の町・ウトロを訪れた。今回から2回はそのレポートをお届けしよう。

世界遺産・知床。2005年、貴重な自然環境と、海陸が混じり合った独特の食物連鎖が評価され、日本で3件目の自然遺産として登録された。知床半島の陸地部分だけでなく、周辺の海洋部も登録対象となっている。写真のバックは雪の知床連山で、いちばん右が羅臼岳

流氷の季節に知床へ

知床の名は、アイヌの言葉で"大地の果て"を意味する「シリエトク」に由来する。つまり、ある意味では日本の端よりもっと端っこ、それが知床である。

冬の知床といえば、流氷。流氷といえば、やはり知床半島北西岸にある港町・ウトロ(宇登呂)だ。冬のウトロへのアクセスとして、ポピュラーなのが女満別空港から入るルート。空港から網走駅までバスに乗り、そこからJR釧網本線で知床斜里駅へ。ここでさらにバスに乗り換え、50分ほどでウトロのバスターミナルに到着する。今回選んだのもこのルートだ。

流氷の季節、網走から知床斜里までは観光列車「流氷ノロッコ号」が走っている。流氷に埋め尽くされたオホーツク沿岸を、名前のとおりノロノロと走っていく名物のイベント列車だ。車内にはダルマストーブあり、装飾として知床の動物のぬいぐるみや大漁旗ありで、乗っているだけで子どもだけでなく大人も楽しめる。

窓の外は流氷のオホーツク、そして女性乗務員による流氷ガイドのアナウンスが流れる……のだが、僕がいた車両では列車の走る音にかき消されて、残念ながらあまり聞き取れなかった。

流氷ノロッコ号の車内にはダルマストーブが置いてある。車内ではスルメが販売されているので、もちろんここで焼いて食べることもできる

知床半島の玄関口、知床斜里駅。かつては斜里駅という名前だったが、1998年に改称された。個人的には以前の斜里駅のほうが名前がすっきりして好きなんだけど

知床斜里駅で流氷ノロッコ号を降り、目の前のバスターミナルからウトロ行きのバスに乗り換え。正午頃、ウトロのバスターミナルに到着した。僕が訪れる前日までは、最低気温がマイナス10度前後まで下がる日が続き、最高気温も氷点下だったが、この日は最高気温がプラス5度近くまで上がり暖かかった。春の訪れを感じる中、バスの車内でコートの中を一枚脱ぎ、ウトロの町へ下り立った。

私ごと、知床はこれが5回目。ただ、最後にきたのが1990年代前半だから、実にひさびさだ。過去4度のうち夏は1度だけで、あとはすべて流氷の季節である。冬のウトロで楽しめるアクティビティといえば、流氷の上を歩く流氷ウォークと、流氷の下へ潜る流氷ダイビングが定番。僕は流氷ウォークを翌日の早朝に回し、この日は雪原を歩くスノーシューウォークに参加した。

流氷がこなくなる日が……

今回参加したスノーシューウォークは、NPO「知床ナチュラリスト協会」(通称「SHINRA」)が主催するツアー。出発点は知床自然センターである。新潟から知床にきて3年というガイドの安井典子さんが、車で宿まで迎えにきてくれた。ちなみに、流氷ウォークのほうはやはり参加者が多いのだけれど、スノーシューウォークはガラガラ……というより、この日のツアーは僕ひとりだった。

知床自然センターへ向かう途中、流氷に埋まった海を見ながら、安井さんがポツリと言う。「以前はもっと大きな塊が着岸していたそうなんですけど、最近は温暖化の影響か小さいものしかこないですね」。たしかに20年近く前は、岸に押し寄せる流氷がもっとデカかった。車どころか家一軒くらいあるような流氷も見た普通に記憶がある。「いずれは流氷もこなくなっちゃうかもしれないですね。それでも今年(2008年)は、最近になく流氷に恵まれているんです」と安井さん。

ウトロの港から見た流氷の海。かつてのように大きな塊がやってこないのは、やはり地球温暖化の影響か。正面がプユニ岬

絶景で知られるプユニ岬辺りの道路脇には、たくさんのエゾシカの姿が。天敵のオオカミが絶滅した知床ではエゾシカが増えすぎ、最近では希少な植物が食い荒らされて生態系が壊れるなど大きな問題になっている。「昨年(2007年)の12月から、知床岬で駆除も始まったんですよ」と安井さん。エゾシカが少なければ少ないでまた問題になるのだろうし、自然というのは本当に難しいものだ。

ウトロの町から知床自然センターへ向かう途中にあるプユニ岬。ウトロの港を埋め尽くす流氷を一望にできる絶景ポイントだ。塊が小粒とはいえ、今年は近年で珍しいほど流氷が多く、水平線まで一面真っ白である

スノーシューウォークは、知床自然センターから海沿いの「フレペの滝」まで雪原や雪の森を、スノーシューを履いて歩くツアー。途中、動物、鳥、木々など、知床の大自然にこれでもかというくらい出くわす。

コースに入る手前にはヒグマ注意の看板があるが、ちょうど数日前からヒグマが目撃され始めたらしい。安井さんも万が一ヒグマと接近遭遇したときのため、ヒグマよけのスプレーを装備。ただ、「まだ実際に近距離でヒグマに向けて使ったことはないですね」とのこと。もちろん、ヒグマ自体は何度も目撃したそうだ。

ウトロの町から車で10分ほど行ったところにある知床自然センター。知床の自然に関するさまざまな情報を発信している。運営母体は知床の自然保護・調査活動などを行う財団法人知床財団

(左) フレペの滝へ向かう遊歩道の入り口に立つ、ヒグマ注意の看板。ヒグマは臆病な生き物なので、人の存在に気づけばヒグマのほうから避けるのが通常(右) スノーシューとは要は"かんじき"の西洋版。靴を載せる形で装着する。靴だけならズブズブと潜り込んでしまうサラサラな新雪の上でも、これを履けばまあまともに歩くことができる

エゾシカに食べられた木の肌、ヒグマが滑り降りた跡、キタキツネの足跡などを見ながら森の中を歩いていると、安井さんが突然、小声で「クマゲラですよ」と僕に耳打ちしてきた。クマゲラは北海道に生息するキツツキの仲間で、国の天然記念物に指定されている絶滅危惧種。全身黒く、頭頂部が赤いのが特徴である。絶滅の危機にさらされている生き物だけになかなか見られるものではないらしく、安井さんは上気した笑顔を見せ「いやぁほんとツイてますね~。私も今年初めてなのでうれしい」と僕以上に興奮していた。

誰がつくったか、遊歩道の標識の上に小さな雪だるまが。よく見ると、その左奥には巨大な雪だるまもあった

雪の林道。「夏だと遊歩道しか歩けませんが、雪の季節なら遊歩道をはずれて森の中に入っていけるのがいいですね」と安井さん。実際、このあと雪の森に入っていった

ハルニレやキハダなど、エゾシカのエサになって多くの樹木が荒らされている。左はエゾシカに食い荒らされたキハダの木。右はエゾシカが角をこすりつけた跡

トドマツにくっきりと残された、ヒグマの3本の爪痕。ヒグマは木に登ったあと、この痕からもわかるように爪を立ててズリズリっと滑り降りてくるそうだ

突然、クマゲラが登場。木の上でコツンコツンとやっていた。慌てて撮ったのでうまく撮れなかったけれど、ご勘弁を。右はクマゲラがつついて落とした木くず

崩れ落ちる"乙女の涙"

やがてフレペの滝を望む展望台に到着。この日は参加者が僕ひとりだから、安井さんも「のんびりいきましょう」と時間を気にせず雪の森を自然探索してきたので、自然センターを出発してからもう1時間半近くが経っていた。

展望台から見た景色。入り江越しに建っているのがウトロ灯台で、右下の崖に張り付いた白い柱が"乙女の涙"ことフレペの滝。左はもう流氷のオホーツクである

知床連山から大地の中を伝わった伏流水が、海に面した崖から染み出て、流れ落ちるフレペの滝。その姿から"乙女の涙"とも呼ばれ、岬から狭い入り江越しに滝を眺める形になる。もちろんこの時期は凍結し、真っ白な柱が崖に張り付くように切り立っていた……と、その白い柱に、黒い小さな点が2つ。あれは何だろうと目を凝らすと、なんと2人の人間だった。氷瀑(凍った滝)を登る、いわゆるアイスクライミングをしている人たちだ。どうやら外国の人らしい。

フレペの滝でのアイスクライミングは禁止こそされていないが、安井さんは初めて見たと驚いていた。しかもこの日は、プラス5度近くまで上がる暖かさ。ハッキリ言って危ない。安井さんも慌てて自然センターに連絡を取ったり、大声で呼びかけたりしていたが、そのさなか、氷瀑の一部が轟音を立てて崩壊し、2人のわずか数メートル脇を巨大な氷塊が滑り落ちていった。まさに危機一髪。

彼らも不安定な氷の上で動けなかったのか、しばらくその場に立ち往生。20分ほど経ってようやく、凍った滝を下りていった。なんとか無事に海岸までたどり着き、流氷づたいに岬の向こうへ歩いていったが、助かったのはそれこそツイていたからだとしか思えない。緊張の数十分であった。

(左)氷結したフレペの滝と、2人のアイスクライマー。この直後、右上の氷塊が崩落し、2人のすぐ横を物凄い音を立てて落ちていった(右)雪原でたわむれるエゾシカたち。こうして見るととてもかわいいのだけれど、食害は深刻なようで、町中にも植え込みを守るための囲いが見られた

次回は知床・ウトロ後編、クリオネ泳ぐ流氷の海に浮かぶ、をお届けします。