この連載では前回まで3回にわたって、渋沢栄一の足跡をたどってきました。栄一が明治時代に活動拠点としたのは兜町を中心とする日本橋地区で、ここに金融都市を形成するという「理想」を描いていました。その日本橋地区は平成バブル崩壊による地盤沈下を経て、令和のいま、国内最大級の再開発プロジェクトや首都高速道路の地下化がいよいよスタートし、街の姿が大きく変わろうとしています。明治時代の栄一の構想が、装いを新たにして令和の時代によみがえってきたと言えます。

日本橋の金融拠点と水辺開発めざした渋沢栄一

日本橋一帯は江戸時代から、東海道など五街道の起点という交通の要衝であり、三井の越後屋呉服店をはじめ豪商が軒を並べるなど商業の中心地でした。日本橋の下を流れる日本橋川を利用した水運も盛んで、日本橋の畔には魚河岸がありました。

日本橋地区のこうした経済的な集積をもとに、栄一はこの一帯を経済の中心地にしようと考えたのです。そこでまず日本初の銀行となる第一国立銀行を日本橋兜町で設立しました。同行発祥の地は現在、みずほ銀行兜支店となっています。                                           第一国立銀行のすぐ近くには東京株式取引所を設立しました。のちに東京証券取引所となって現在に至っており、今も同じ場所にあります。

また東京海上保険会社(現・東京海上日動火災)、東京銀行集会所(現・全国銀行協会)なども兜町に設立したほか、盟友だった益田孝が社長を務める三井物産なども兜町にありました。

栄一は自宅も兜町に建てました。東京株式取引所のすぐ北側の隣接地、日本橋川沿いの場所で、明治21年(1888年)に完成させました。ベネチアン・ゴシック様式風のおしゃれな洋館でした(現在の清水建設が施工)。

  • 渋沢栄一の兜町邸(手前は日本橋川)=清水建設提供

実はこの自宅に、栄一の理想像が象徴的に込められています。栄一は兜町を中心とする日本橋地区一帯を経済の中心地にするとともに、日本橋川の水辺開発による都市づくりをめざしていました。そのモデルとしたのが、水の都・ベネチアで、新しい自宅もそのようなイメージに合ったものにしたいと考えました。

そこで、当時新進気鋭の建築家だった辰野金吾に設計を依頼したのです。辰野はロンドンに留学経験があり、その時期にベネチアにも2~3週間ほど滞在したことがあるそうです。そのような辰野に、栄一は思いを託したのでした。

辰野はそれ以前にも、栄一の依頼で東京銀行集会所の設計も手がけたことがありましたが、この兜町邸の設計をきっかけに二人は長く親交を結ぶようになります。栄一の後押しもあって、やがて辰野は日本銀行本店や各地の銀行など数多くの建物の設計を手がけて建築家の第一人者となりました。

余談になりますが、後の代表作である東京駅舎も栄一との縁が深い作品です。大正3年(1914年)に完成した東京駅舎は赤レンガが有名で、2012年に当時の姿に復元されましたが、当時その大量の赤レンガは、栄一が故郷の深谷に設立していた日本煉瓦製造会社で生産されたものです。もともと栄一は明治初期から鉄道会社を設立するなど鉄道事業とも深く関わっていました。2024年に発効される新1万円札で栄一の肖像とともに、裏面で東京駅丸の内駅舎が描かれるのも、このような背景があったからなのです。

地盤沈下を経て、日本橋再生計画

さて話を戻しますと、兜町の渋沢邸は関東大震災で倒壊し、日証館というビルが建て替えられ現在に至っています。同ビルの1階ホールには渋沢邸の庭にあった「佐渡の赤石」が展示されています。これは、栄一がこの邸宅を新築した際に、彼が設立した会社と日本経済の発展を祈願する縁起石として置いたものだそうです。              

  • 渋沢邸の庭に置かれていた「佐渡の赤石」。渋沢邸の跡にある日証館ビルの1階ホールで展示されている(筆者撮影)

その願いどおり日本経済は飛躍的な成長を遂げ、日本橋一帯は経済の中心地に、兜町は証券の街として発展しました。栄一の構想はほとんど実現したと言ってもいいでしょう。しかし、やがて平成に至ってバブルが崩壊、兜町をはじめ日本橋は活気を失っていきました。

そこで2000年頃、三井不動産や地元企業と中央区が一体となって「日本橋再生計画」を打ち出しました。旧東急百貨店日本橋店の跡地に日本橋地区初の超高層ビルとなるコレド日本橋が建設され(2004年)、これを皮切りに日本橋室町などで再開発ビルが続々と誕生、商業施設やオフィス、ホテルなどが開業しました。ビルの間を通る小路なども整備され、江戸時代の外観を再現した店舗や装飾も登場するなどで観光客も増えて、街にはにぎわいが戻ってきています。

日本橋川沿いで5つの大規模再開発動き出す

これらに加えて今回、日本橋川沿いで5つの大型再開発が動き出しました。5つを合わせると敷地面積6万7000m2、施設の延べ床面積約122万平方メートルに達し、総事業費は数千億~1兆円にのぼる見込みです。都内で現在進行中の他の再開発と比べると、たとえば東急百貨店の渋谷再開発が1,350億円だそうですから、その大きさがわかります(日本経済新聞)。

5つの再開発事業の中で最も先行していて、規模も最大なのは、「日本橋一丁目中地区」です。日本橋南詰の東側一帯約1万9,000m2の敷地に、三井不動産と野村不動産が中心となって再開発します。現在は野村証券旧本社ビル、寝具の西川など27のビルがありますが、ここに高さ284mの超高層ビルなど3つのビルを建設する計画で、オフィスや住宅のほか、超高級ホテルも入ります。

既存ビルの解体工事がすでに始まっており、完成は2025年末の予定です。このうち野村証券の旧本社ビルは戦前に建てられた歴史的な建物であることから、改修して保存するそうです。

このほか、日本橋南詰の西側の「日本橋一丁目1・2番街区」、日本橋の対岸(北詰)から山本海苔本店(三越本店の向かい)のあるエリアの「日本橋室町一丁目地区」、日本の郵便発祥の地である日本橋郵便局を含むエリアの「日本橋一丁目東地区」などでも再開発が始まります。これらに隣接する東京駅八重洲口の北側では、みずほ信託銀行本店のある「八重洲一丁目北地区」の再開発も予定されています。

すでに八重洲口の北側一帯では、「常盤橋プロジェクト」も工事が進んでおり、これらも含めた日本橋とその周辺は他に例をみないほどの広範囲な再開発となります。     

  • 日本橋の主な再開発

  • 日本橋の再開発と首都高地下化の地図(概略図/首都高HPから転載)

首都高速道路の地下化もスタート

そして、いよいよ日本橋の上を走る首都高速道路の地下化事業がスタートしました。 計画では、日本橋川の上を走る都心環状線の神田橋付近から江戸橋付近までの約1.8kmを地下化します(上記の資料参照)。その準備工事のため、首都高の呉服橋と江戸橋の出入り口が5月10日から廃止となります。

総事業費は数千億円が見込まれており、完成は2040年の予定です。かなり時間のかかる工事となりますが、完成すれば、日本橋とその周辺は前述の再開発と併せ、景観が一変することになります。

現在の日本橋は明治44年(1911年)に建設されたもので、国の重要文化財に指定されている歴史的建造物です。ルネッサンス様式の石造り二連アーチ構造で、橋上には青銅製の燈注6基が建ち、その美しさはなかなかのものです。しかしその真上を首都高速道路が覆いかぶさるように建設されたため、せっかくの歴史的価値や景観が損なわれる状態となっています。

  • 日本橋の真上を首都高速道路が走る(筆者撮影)

このため以前から高速道路の地下化を要望する声はあったものの、膨大な費用と技術的な問題が大きいことなどから、なかなか進みませんでした。しかし最近の日本橋地区の再開発機運の盛り上がりや老朽化対策の必要性などから、2017年に国と東京都、首都高速道路が計画をまとめ、具体化を進めてきていました。

高速道路の地下化によって日本橋の歴史的・観光的価値が高まることは間違いありませんが、さらにその周辺の日本橋川沿岸のリニューアルという効果を生むことになります。 実は現在の高速道路は、日本橋だけでなく日本橋川全体にふたをするように走る構造になっており、川には何本も橋脚が立ち並んでいます。そのため川面は薄暗く、両岸はビルの裏側になっていて、一般の人が川岸に出ることがほとんどできません。        

  • 日本橋川は高速道路に覆われ、何本もの橋脚が立ち並んでいる(日本橋の上から筆者撮影)

高速道路の地下化によって、川岸に遊歩道などを整備し、オープンテラスのカフェやレストランなどが集まり、町全体の魅力が増すことになります。日本橋から隅田川、東京湾、さらに羽田などを船で結べば、新たな交通網整備と観光開発にもつながるでしょう。

SDGs重視で国際金融都市めざす

これは、まさに渋沢栄一がめざした水辺開発の現代版と言ってもいいでしょう。前述の再開発事業の中でも、日本橋川岸を憩いの場として再開発する構想が含まれています。高速道路地下化と再開発事業はもともと別のプロジェクトで事業主体も異なりますが、内容的には連携しており、効果も連動します。

また高速道路の地下化は、景観や環境への配慮という点でSDGs(持続可能な開発目標)にもつながるものです。本連載の前回(「渋沢栄一に学ぶ生き方と経営(下)~『論語と算盤』が教えるSDGs」4月8日付け)で、栄一の考え方は現在のSDGsの先駆けであり、コロナ禍を通じてSDGsの重要性が高まっていることを書きました。その意味でも、栄一の思想が日本橋によみがえってきたと言えそうです。

現在、コロナ禍で観光客は激減しており、オフィス需要も短期的には停滞傾向が出ています。しかし長期的には再開発と高速道路地下化の相乗効果によって、日本橋地区の金融都市機能と観光都市としての魅力がアップするでしょう。

コロナ後には、国内的にも国際的にも都市間競争がますます激化することになるでしょう。特に国際金融都市をめざす東京としては、ライバルの香港、上海、シオンがポールなどとの競争に勝つためにも、日本橋は重要な拠点です。

課題はまだまだありますが、日本橋再生が日本経済全体の再生にもつながることに期待したいところです。