今回のテーマは「観葉植物」である。

我が家には現在、観葉植物はひとつもない。むしろ、意識的に植物は持ち込まないようにしている。もし、私が植物を家に持ち込もうとしていたら、それは大麻など、別の意味で心を豊かにしようとしている時なので、問答無用で逮捕した方がいい。

なぜ植物がだめかと言うと、触ると皮膚がウミウシみたいにカラフルになる、という体質的な問題ではなく、もちろん性格的問題である。むしろ我が家のクライシスは、大体私の性格が問題となっている。

私の性格上、植物のみならず「有機物はまずい」のである。まず、物をすぐゴミに変えるマジックハンドを持っている上、ゴミになったものを永遠に捨てない、という話は今まで再三してきたが、まだそれが無機物だからいいのだ。無機物のいいところは、ゴミになったら半永久的に同じゴミでいてくれる、という点だ。変わらぬクオリティでゴミなのだ。安心と信頼のゴミだ。

しかし、有機物というのは、はかなく、移ろいやすいため、ゴミになっても経年とともに、その姿、色、果ては臭いまで千変万化してしまう上、そこからさらに新しい生命を生み出してしまうことすらあるのだ。つまり、観葉植物を持ち込み、もし枯らしてしまったとしても、自然消滅するまで永遠に枯れたまま飾ってしまうのだ。そのままドライフラワーになってくれればいいが、新しい生命を生み出すタイプに進化したら、ことである。

そうなることが分かりきっているので、草花は最初から持ち込まないようにしている。ただでさえ、「料理が完成したと同時に腐っている」でお馴染みの「腐り手」である私だ。植物が腐らないわけがないのだ。

そしてもうひとつ、観葉植物を置かない理由がある。「雅を解する心が一切ない」のだ。そもそもなぜ、人は観葉植物を置くか。おそらく、小腹が空いた時、味噌をつけて食うためではないだろう。おそらく、「緑はいいぞ」という思想なのだと思う。

少し前に、「ガルパンはいいぞ」と言う言葉が流行った。しかし、世の中にはガルパンの良さが分からない人も確実にいたと思うし、そもそもアニメがいいと思えない人もたくさんいるだろう。それと同じノリで、「緑はいいぞ」が全然分からないのである。そのほかにも、「花はいいぞ」「空はいいぞ」「虹はいいぞ」という、ポエム野郎のフェイスブックに大体載っているもの全てに、「いいね」が押せないのである。

そもそも観賞する以外に実用性がないものは、「いいぞ」と思えなければ、持つ意味がないのだ。意味がないものを持ち込んだ上にゴミにするというのは、DVDを借りて見ないまま返却した上、延滞料までバッチリ取られたに等しい。

よって私は、植物を家に入れないのだが、それ以前に、庭を持っているという問題がある。庭というのは、私が危惧している「生命が勝手に生まれる場所」であり、管理できない者は持つべきではなく、マンションなどに住んだ方がいいのだ。しかし、そこまで考えが至らず、愚かにも一戸建てにしてしまったのである。

今は夫が管理しているからいいが、私ひとりになったら、その惨状は想像に難くない。よってそうなる前に、私は庭を全てコンクリートで埋めてしまいたいと思っている。実際、夫にも何度か打診しているのだが、どうやらギャグと思われているようで話が進まない。ふざけるな。マジだ。

しかし、夫は私ほど庭や植物の管理が苦ではないようで、庭にプランターを置いて家庭菜園までやっている。ガルパン側の私から見ると、信じられない趣味である。だが、目的は鑑賞というよりも実用で、去年あたりからアスパラを育てており、我が家の食卓にのぼることもある。それは正直、助かっていた。

そしてある日、料理にアスパラが使いたくなり、夫に収穫していいか訪ねたところ、許可がでたので、私はプランターにあるアスパラを根こそぎ全部収穫した。言うまでもなく、続けて収穫するには、何本か残さないとダメだったようだ。つまり、夫の菜園をジェノサイドしたのである。

どうやら私の手は、『BLEACH』で言うところの"命を刈り奪る形"をしているらしい。命を守ろうと思ったら、「触らない」以外方法がない。よく、「あなたの○○で救える命がある」と言うように、「私が何もしないことで救える命がある」のである。

筆者プロフィール: カレー沢薫

漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。
デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年、文庫版2015年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。「やわらかい。課長起田総司」単行本は全3巻発売中。