漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。

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今回のテーマは「食欲の秋」だ。

私はつい最近まで、YouTubeで不倫や嫁姑の殺し合いなど、人間同士の醜いエピソードを動画化したものを見るのにハマってきた。

その結果ステータスが「どく」になり、ウィンドウの色が緑になったため見るのをやめたが、人間同士の醜い争いには食べ物が絡む場合も多かった。

メシマズを全く自覚しない嫁、人が作った料理に点数をつける夫、寿司を頼んで嫁だけに食わせない姑など、さすが醜い人間、食い物のことで意地汚く揉めに揉めるといった感じである。

そんな意地汚い人間の食い物を巡る争いの中に「食い尽くし系」というジャンルがある。

俺の食い物は俺のもの、お前の食い物は俺のもの、二人で食事をしていても相手の分まで食う、子どもの弁当のためにとっておいたおかずも食う、パーティーバーレルを抱え込みソロバーレルにしてしまうジャイアニズム食い物特攻型が食い尽くし系である。

この手のタイプは、食い物を見ると我を忘れてしまい、何回注意しても聞かず、逆ギレさえしてくるため、パートナーには愛想を尽かされ、仲間内からは意地汚い奴とハブられる、というのが大体の食い尽くし系エピソードのオチである。

実は私はこの食い尽くし系の傾向がある。

実家にいた頃は、家にある食い物は全部俺のもの感覚で食っており、ファミリーパックの源氏パイもシングルパックにしてしまっていた。

さすがに他人との食事でそれはやっていないと信じたいが、何せ食い物を前にすると我を忘れてしまうため、ポテトチップスを独占した上に、袋から直接口に残りカスを流し込むフィニッシュまでキメていた恐れがある。

だが幸い、今は誰かと一緒に物を食べることが滅多にない。

むしろ食い尽くし行為を繰り返したせいで今一人で飯を食っているのかもしれない。井之頭五郎も食い尽くしの果てにあのスタイルにたどり着いた可能性がある。

確かに食い尽くし系は一人で飯を食った方が、本人よりも周囲の食事が自由で救われて豊かになって良い。

家にある食べ物も、今は二人暮らしなため、夫が買ったお菓子を食べたら100%犯人が私とバレるので、開封済みのブラックサンダーを1個せしめるぐらいしかできない。

今年は我が集落の住民が次々と猿に襲われるという事件があったので、ワンチャン猿のせいにできるかもしれないとも思ったが、猿は人ばかり襲って食い物には手を出していなかったようなので、その言い訳は苦しい。

猿もブラックサンダーを盗み食った方が絶対有益だったはずなのに、なぜ人間なんかを襲っていたのか謎である。

そんなわけで食い尽くしで他人に迷惑をかけることはあまりなくなったのだが、この食い尽くし行為は一人でも起こるのである。

一旦ポテトチップスなどを開けてしまうと、一心不乱に食べてしまい、30秒ぐらいでフィニってしまうのである。

それに対して1日はまだ23時間59分30秒残っているのだ。どう考えてもコスパが悪い。

そんなわけで、あっという間に食い尽くしてしまわない、長持ちする菓子を探していた。 おそらく「画鋲」とかにすればかなり長持ちすると思うのだが、どうせなら美味しいものがいいし、できればケガもしたくない。

そんなわけで、最近チョコレートやスナック菓子ではなく「グミ」を食べるようになった。

グミならチョコやチップスのように過剰に美味くないし、飴のように口に長く止まらせることも可能なはずである。

そう思っていたのだが、最近のグミというのは過剰に美味いのである。

結局、袋菓子と同じペースで食ってしまい30秒で消えるのだから、製菓会社の企業努力には恐れ入る。

つまり何ら変わりがない、と言いたいところだが、ある変化が起こった。

体調が悪いのである。

誤解のないようにいうがグミ自体が体に悪いわけではない。ただ、もしかしたら私が食べているグミは栄養が少ないのかもしれない。

チョコやスナック菓子の方が体に悪いように見えて、あれはあれで何らかの栄養を持っていたのである。

それをグミに置き換えたことにより、栄養不足に陥ったと見える。

それを考えると、アメリカ人はフライドポテトをサラダと呼ぶ、というのはあながちジョークではない。元々は野菜なのだからグミよりは栄養が取れているのだろう。

私は今まで、栄養というものは肉眼で見えないという理由であまり信じていなかったのだが、栄養は「自分の健康や外見」という形で目に見えるということがよくわかった。

そしてわかったからグミをやめたかというと、逆にグミを食べるために野菜や肉などを前より食べるようになり、食生活が健康的になった。

つまりグミは健康に良い、ということなので、皆様にもお勧めする。健康になるために必要なのはまず「このままでは死ぬ」という危機感なのだ。