漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。

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今回のテーマは雪である。

かつてディカプリオが太陽と月に背いていたように、ひきこもりというのは基本的に季節に背いて生きている。

冷暖房のある部屋から1歩も出ず、年中「21度」という、まるで己の人生のような半端でぬるい温度に浸かって生きているため、四季を感じることができないのだ。

一年中快適な温度で暮らせている、と思うかもしれないが「ぬるい温度の部屋に中年を一年中置く」というのは夏休みの理科実験みたいなもので、何らかの菌が発生しないわけがないのである。

実際私の部屋は、常温なかわりに常臭であり、90日保つと書かれている消臭剤が30日ぐらいでカピカピになる。

さらに常に酸素濃度が薄いため、頭が回らず、人間失格の最後の方みたいなぼんやりした生活をしているのだ。

つまり私の部屋は宗教の勧誘などに最適なのだが、多分勧誘する側も徐々に意識が遠のき、リアルに神の姿を見てしまうと思うので「ボンベ」は必携でお願いしたい。

このように、ひきこもりは「暑い」「寒い」の感覚が消え「臭い」そして「薄い」しかなくなるため、季節を感じるのが困難なのである。

一見夏の方が臭くて薄くなりそうに見えるが、それは丸1年引きこもったことがない素人の感想であり、実際は「換気」を一切しようとしない冬の方が薄臭い。

ひきこもりは自分が外に出るのを嫌がるが、それ以上に嫌っているのが、他人が自分の部屋に入ってくることだ。

そんなひきこもりが「外気」なる余所者を定期的に自室に招くはずがない。

「鍵もかかってないのに開かない」のがひきこもりの部屋である、あまりにも長い期間開けてなさすぎて固着しておりゾディアック家の門より重い。

そして、歳を取るほど暑さ寒さに弱くなっていくが、暑さ寒さを「感じる力」も弱くなっているため「これはヤバい暑さだ」ということに気づけず熱中症で倒れてしまう老も多いらしい。

老になったら自分の感覚は信じず「行きたくなくても便所へ行く」「暑くなくてもエアコンを入れる」を心がけないと、色んな意味で命を落とす。

そんなわけで、ひきこもりになって以来、肌で季節を感じることがあまりなくなってきた。

それに対し「雪」というのは数少ない「肉眼で見える季節」である。

基本的に私は「下斜め45度」しか見ていないので、ここ数年「桜が咲いている」ことには気づかず、散って花びらがアスファルトに張り付いているのを見て初めて「桜が咲いていた」と過去形で春に気づく。

その点、雪というのは、どれだけ下を向いて歩いている逆坂本九でも視界に入ってくる親切設計である。

また、私が座る机の対面に窓があるため、部屋の中にいても雪が降っているのはすぐにわかる。

雪が好きか嫌いか、と言われたら外に出なくて良いのなら割と好きであり、粉雪も歌う。

しかし、外に出るとなったら雪は最悪である。

単純に寒かったり「雪って水じゃん」という事実に気づいたり、というのもあるが、田舎で徒歩でできることと言ったらゴミ捨て以外ないので、外出は車の運転前提なのだ。

雪は運転の大敵である。

一応スタッドレスタイヤを履いてはいるが限界はある。

不用意に凍った路面に車で出てしまうと、夢の中にも居場所がない人間がよく見る「ブレーキをいくら踏んでも車が止まらない」という悪夢が実現することになってしまうのだ。

そんな日は車なんか運転しないのが一番なのだが、何せ田舎は車を運転しないと何もできないのである。

しかし、こういう時に「何もしない」を選べないから、事故処理などのやらなくて良いことが発生してしまうとも言える。

日本は「いざ鎌倉」の国であり「万難を排して駆けつける」のが良いとされているが、それはたまたま運良く駆けつけられたから美談になっているだけであり、雪の日に「途中で事故ったんで今日は無理っすわ」と電話がかかってきたら北条時頼も「こんな日にわざわざ車で来んでええのに」と思うだろう。