漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。

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今回のテーマは「2021年やりのこしたこと」である。

どう計算しても2021年内に終わりそうにない仕事ならたくさんあるが、多分そういう話ではないだろう。

むしろ常にやるべきことよりやりたいことを優先した結果が今である。この後に及んでまだやりのこしたことがある、と言ったら私に2022年は訪れないと思うし、そんなことを言ったら今リアルタイムで私の返事を待っている人間のやりのこしたことが「私に2022年を見せない」になってしまう。

そうなったら相手も2022年を鉄格子の中か潜伏先で見ることになるし、私も初日の出を地面ではなく、お空側から至近距離で見ることになってしまう。

よって今年も答えは「やりたいことがなければ、やりのこしたこともない」である。

実際ここ数年、やりたいことが特にない。

それ以前に「家から一歩も出ず、他人と一言も話さず暮らす」という人生最大のやりたいことをほぼ毎日やってやっているのだ。

中世の貴族かピーク時の藤原道長レベルのやりたい放題であり、これ以上やりたいことがある方がおかしい。

そういう意味で私は夢を実現しており、ステージとしては宇宙に行った友作(前澤)と同じところにいる。

つまりこの部屋が私の宇宙である。

むしろ友作は宇宙から帰還したのに対し私はずっと宇宙にいるのである意味「友作超え」と言って良い。

やはり人生において大事なのはリアル宇宙に行くことではなく、自分の宇宙を見つけそこに到達することである。

世の中には、すごく高い山やとても寒いところ、マッドマックスロケ地など命の保証ができないところにわざわざ行く人がいる。

そういう人がなぜそこに行くかというと人それぞれであり、達成感を得に行くというスポーツマン気質の人、そういう場所に行くとゴン太スポンサーがつくというビジネスマンな人、そして「そういうプレイ」ノーベル素直賞な人などさまざまである。

ただプレイヤー気質な人によると、自分はそういう危険地帯に行かないと生を感じられないから行っているだけであり、部屋の中でそれを感じられるならそれにこしたことはなく、歩いていたら死ぬようなこんな場所にわざわざ来る必要はないという。

そう言われれば、数年前、ソシャゲのFGOで初めて土方歳三を出した時の激情がエベレスト南西壁を単独無酸素登頂した人に劣るとはどうしても思えない。

だから、ひきこもりの私が『神々の山嶺』を読んでも「何やってんだコイツら」とは思わないし、ガチャがドブリ倒している時に「岸よう‥」と誰にも通じないモノマネがナチュラルに出てきてしまうのだ。

やはり人生で大事なのは、自分の登りたい山に登ることだ。おそらく私がリアル山に登って山頂に着いたとしても嬉しさも中くらい、そして2秒後には「下り」のことを考えてブルーになっていると思う。

それよりも、推しの実装が発表され、それが★5だった時の方が「なんてでけえ山だ」と畏怖すると同時に「だが登る」というガッツが湧くし、山頂という名の「天井」に到達した時の達成感と同時に感じる虚脱、そしてしばらくして「もうこんなにも‥回したい!」という刃牙状態は、自分の登るべき山を見つけた登山家なら誰でも経験があるだろう。

どの山かは問題ではない、エベレストでもガチャでも、それが自分の山だと決めればそれは『神々の山嶺』なのだ。

よって、今年やりのこしたことがあろうがなかろうか、それを後悔するか、来年こそやってやるという希望にするかは本人の気の持ちようである。

よって、私も他人から見れば、家から一歩も出ず、何もしない、孤独なひきこもりかもしれないが私にとっては充実した一年であり、来年もこうだったら良いなと思っている。

そもそも歳をとると「やりのこし」と感じること自体が減っている気がする。

私の心残りももっぱら、高校時代にあれをやっておけば良かった、というもう二度と戻らない日のことばかりだ。

逆に言えば、そういう期間限定のこと以外は、今からでもやりたければやればいいと思っているし、やらないということは、そこまででもないということだ。

ここ数年、コロナ禍で学校行事が軒並み中止になっており、学生を中心に多くの若人がやりのこしと心残りを抱える結果になってしまったと思う。

それは非常に残念なことだが、やらなかった、できなかった後悔というのは常に「やった後悔」と表裏一体である。

コロナにより中止になった文化祭や修学旅行などは別名「トラウマ製造行事」である。

コロナさえなければ、はもはやタラレバでしかない。

ならば「コロナのおかげで一生もののトラウマを作らずに済んだ」とポジティブに捉えた方が良いだろう。