漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。
今回のテーマは「無駄遣い」である。
無駄遣いはやめるべきだ、昔からそう言われているし、確かに正しい。
しかし無駄遣いの「無駄」とは一体何か、そこを曖昧にしておくと金を使う度に「またつまらぬものを買ってしまった」と石川五右衛門みたいなツラで凹むことになり、人生がさらに暗くなってしまう。
無駄とは「不必要」と言う意味である。
そういう意味では人間が生きていくために必要な最低限の衣食住以外は全て無駄ということになってしまう。
ならば、ブルーシート製のコンパクトな住居に、衣服は陰部と乳首が辛うじて隠れているだけのクールビズ、食事は錠剤と白い粉、時に注射で必要な栄養素だけ取っていれば良い、ということだろうか。
そういう人が「合理的で堅実な真っ当な生き方をしている人」として見られるだろうか。逆に「あらゆる社会保障と人としての信用を捨てることにより自由を勝ち取った人」にしか見えないだろう。
このように、全く無駄遣いをしない人と言うのはむしろクレイジーであり、人間らしく生きるためには生命を維持するため以外の出費も必要なのである。
逆に言えば、命にかかわること以外、全部「無駄遣い」なのだ。
重要なのは、それが自分にとって、必要か、無駄かという点である。
よって、そいつのお母さん、もしくは家計を同一にする家族でない限りは他人の金の使い方に対し「無駄遣い」とは口が裂けても言ってはいけない。
例えば、暗くて靴が見えないという女中に、札を燃やして「どうだ明るくなっただろう?」とやっている成金を見ると、庶民は「なんて無駄遣いを」と思うだろう。
しかし、彼はそれで「俺金持ちDOYAAAAAA」ということを、下々の者に示せて大満足、QOLがギャン上がりなのである。
それは彼にとって、ザ・ビッグで4人家族1週間分の食料を買うより価値があることなのだ。
だが、庶民にはそれが理解できないので「無駄遣い」に見えてしまうのだ。
このように我々は「理解できない金の使い方」のことを「無駄遣い」と呼んでしまいがちなのだ。
ならば「理解できないなら黙っていろ」ということである。
何故「わかりません!」ということをワザワザ声に出して相手に伝えるのか。自分は無知で不理解ですとバラしてしまってるようなものだ。
他人が自分に理解できないことに大金を使ってご満悦なら「へえ、良かったね」と言いながら半笑い、で十分なのだ。
これは金の使い方のみならず「わからないことには黙っている」というのは、すごく大切なことである。
ツイッターとかでも何かが話題になっていれば、よくわからない分野の話でも、つい自分の御意見を一言言いたくなってしまうが、御意見を言うということは、当然反論をされる恐れもあるし、最悪「よくわかってないくせに適当こいている」ということがバレ、バカを晒すことになりかねないのだ。
つまり「わからないことには黙っている」というのが、自分にとっても一番平和的なのである。
もしどうしても何か言いたいなら、少しでも理解する努力をしてからの方が良い。
私も、以前はこの考えに至れておらず、昔のコラムを見ると、夫が車に金をかけることに逐一文句を言っている姿が散見できるのだが、今は、ナンバープレートを誕生日にしたり、ミラーだけ色を変えたりしているのを見ても、自分の金でやっている分には「無言・無表情」という穏やかな対応ができるようになった。
ともかく、自分の好きな物を「無駄」と評されていい気分になる人間はいない。金や時間をかけているものならなおさらだ。
余計な恨みを買わないためにも、他人の金の使い方にはノーコメントが無難である。
ちなみに「金持ちだね」とか「そんなに使って大丈夫?」とかも言わない方が良い。
金を持っていなくても買うのがオタクだし、大丈夫じゃないことは他人に指摘されずとも本人が一番よくわかっている。
ならば欲しいと思って買ったものは全て無駄遣いじゃないか、というとそうではない。 それを買ったせいで、本当に欲しい物が買えなくなったとしたらそれは無駄遣いである。
そういう無駄遣いをなくすために、自分にとって何が無駄で、何が無駄ではないかははっきりさせ、優先順位をつけておくことが重要なのである。
ちなみに私は、パスワードどころかメールアドレスすらわからず、解約することができない動画サイトの有料会費を月500円ほど支払い続けている。
このように「俺にとっては必要なものなんだよ!」と言い張ることすらできない「無駄遣い」というのもこの世には存在する。
このような無駄を越えて「捨て」と言っても良いような出費をいかに減らし、自分にとって必要なことに金を使うかが大切なのだ。