漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。

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今回のテーマは「美術館」である。

普通なら私にとって美術館なるアカデミックな場所は、怖い話まとめサイトを見た後の便所よりも遠い場所なので、何故それを俺に聞く、と言うところだが、こう見えて私は10年ほど某都営美術館の広報漫画を描くという仕事をしている。

何故、そのような仕事が私に来たかというのは10年経った今でも謎の上、担当者がついに今年異動してしまったので実質迷宮入りである。

逆に言えばこんな重大な発注ミスをしておいて10年飛ばされなかったのがすごい。お上も意外と笑えない冗談が通じるということだ。

ちなみに税金で運営されているところというのは、税金を使って好き勝手やっているイメージがあるかもしれないが、少なくとも私が取材している都営美術館は、そこらの民間企業よりシビアであった。

もはやシビアを越えて「渋い」「侘び寂び」のレベルであり、出張するにも、どんな迂回をしようが馬を使うことになろうとも、必ず「最安値」を徹底していた。

税金が無駄遣いされているとしても、それは上の人がやっていることであり、末端は我々よりも激シブなことをさせられているのが公営というものだったりする。

そして美術館に10年通ってわかったことは、美術と言っても、根底にあるものは我々オタク野郎と大して変わらないということである。

我々がキャラの止め絵1枚から壮大なストーリーを見出したり、同じコマにいるだけで「デキてる」など関係性を感じたりするように、美術を好むものは、1枚の絵や写真から芸術を解さない者にはわからない「ヤバみ」を感じているのである。

そして「これヤバない?」とヤバみを共有するのが「展覧会」である。

そして「これはヤバいわ」と、1枚の絵について解釈を延々語りあったりする姿など、ファミレスでエヴァのラストについて語り合っているオタクと大して変わりがない。

美術を理解できない側として美術オタと接することにより、一般人がオタと接した時に感じる「何がそこまでお前をそうさせるのか」という不可解さを味わうことができて、本当に良かった。

この経験がなかったら、自分のオタクとしての気持ち悪さを一生客観的に知ることが出来なかっただろう。

しかし、今回美術館はコロナウィルスの影響を真っ先に受けてしまった。

美術館で、来館者が激しいモッシュをしている姿など10年で1度も見たことがないので、結構ソーシャルディスタンスを守れる場ではあるのだが、密であるには違いなく、私が取材している美術館も早くに休館を始めた。

緊急事態宣言解除により先日やっと再開されたが、休館中の展覧会は結局1度も客を入れることなく会期が終わってしまったのである。

私は休館中に取材で中に入れてもらったが、展覧会の準備はすでに出来ており、作品も全て展示されていた。

しかし、そこに客を入れて見せることが出来ないのである。

美術館の展示というのは数年前からスケジュールが決まっており、準備に2~3年を要するため、簡単に「コロナが終息後に延期」という風にはできない。

よってコロナ休館中にかぶった展示は結局、誰の目にも触れないまま終了になってしまっているのが現状である。

このように「コロナが去ったあとまたやれば良い」という問題ではなく、2度とない機会を失ってしまった人も今回多いわけである。

結婚式なら延期という方法も取れるが、葬式となると故人にだって次の予定がある。よって、最少人数だけでお別れということにもなってしまったようだ。

このような「機会損失」というのはどんな優良国家でも補償できるものではない。

私も「新刊が発売してからの1カ月」という作家として最も大事な時期が、書店休業や通販の制限にモロかぶりしてしまい、危うく歴代最速で連載を打ち切られそうになった。

そういう「そんなことあるか?」という目にあった人が今回たくさんいるのである。しかも、どうにもならないことである上、誰のせいでもないので、怒りの矛先さえないのである。

私のように「担当」という特に理由のない怒りをぶつけて良い相手がいるなら良いが、文字通りやり場のない怒りを抱えた人も多いだろう。私の担当でよければ貸してやりたいぐらいだ。

私もしばらく、考えても怒っても仕方がないので考えるのをやめる、というカーズ様状態になってしまったが、カーズ様と違って、死にたくなくても働かないと死ぬ体なので、結局早めに気持ちを切り替えるしかないのである。

このように、金なら後で取り返せる可能性があるが、機会だけは2度と取り返せないことがあるので、やれることはやれる内にやった方が良い。

しかしその結果が「やんなきゃ良かった」ということも、ままある。というかそっちの方が多い。

しかしやらなかったら「やれば良かった」という後悔をどうせするだろう。

後悔のないように生きる、というより「どっちの後悔がマシか」を選んで行くのが人生である。