
盟友である翻訳家の柴田元幸さんを迎え、進行役の坂本美雨さんとともに「音楽で仮定法を学ぶ」をテーマに白熱の翻訳談議を展開。ビーチ・ボーイズやエディット・ピアフなどの名曲に乗せて英語表現のニュアンスを紐解いたほか、方言・スラングの訳し方やAI時代における翻訳の未来、参加者からのQ&Aまで、言葉と文学の魅力が詰まった贅沢な時間となりました。
この記事では中盤2曲について語った内容を紹介します。
(写真左から)坂本美雨さん、村上春樹さん、柴田元幸さん
◆Arthur Prysock Count Basie「I Could Have Told You」
村上)次は僕の選んだ曲で「I Could Have Told You」、仮定法過去完了ですね。アーサー・プライソックという歌手が歌いますけれど、このレコードはね、僕が高校時代に買って愛聴していたレコードで、なんか高校時代から結構趣味が渋かったんです。アーサー・プライソックって、バックのカウント・ベイシーの伴奏がとてもいいんです。聴いてください。
<アーサー・プライソックの歌が流れる>
村上)高校時代からこういうのばっかり聴いてたから、友達と話が合わなくて、とても苦労しました。この曲もね、条件節はほとんど出てこないんですよね。一ヵ所だけ「If only you'd asked I could have told you so」。聞いてさえくれたらちゃんと言ってあげたのにさ、聞かないから言えなかったんだよと。余計なことを言うみたいで、水をさすみたいで言えなかったじゃない、という歌なんですよね。If only you HAD asked I could have told you soだから、これが仮定法過去完了で、結構難しいんですよね。過去の仮定だから、どっちも1つ時制が前になるんですよね。
柴田)アーサー・プライソックの歌い方は、I/could/have/told/youというふうに一語一語すごくはっきり歌ってますけど、普通しゃべる時はhaveは音としてはofぐらいにしか聞こえないんですよね。だから小説の中で、あまりちょっと勉強できない人の書いた言葉をまねる時によくcould of toldとか、そんなふうに書いたりもするから、音としてはそういう感じなんですね。
村上)でもね、これなんか切々として、気持ちはよくわかるんですよね。なんか友達がすごく女の子を好きになってて、これうまくいかないよなってわかるんだけど、言えないんですよね。言っちゃうと喧嘩になっちゃうからね。
柴田)前半はこの「I=僕」はただの傍観者だと思うじゃないですか。でも後半を聴くと、彼についても泣き濡れてとかそういう言葉が出てきて。As I toss and turn and try to sleep、ここですね。何度も何度も寝返りを打つっていう時にtoss and turn という言い方をするんですけど、それは単に物理的にそういうことをするっていうよりは、なんか悲しいことがある、不安なことがあるという気持ちの表れとして言ってるわけですよね。だからこの人自身がすごく悶々(もんもん)と眠れない夜を過ごしている感じがする。
村上)これ、元カノだったんですかね……。
柴田)だから彼女は男をみんなこうやって傷つけて……。
村上)彼も泣き濡れるくらいだから……。
柴田)そうですよ。Through all of my tears、もう我泣き濡れてという感じなんですね。自分も傷ついているから言えるわけです。そういう物語があるんです。
村上)関係ないですけど、オルガンを弾いていたのはカウント・ベイシーで、このオルガンがいいんです。彼がオルガンを弾くのは珍しいんですけどね。
柴田)カウント・ベイシーは僕、やっぱりフレディ・グリーンのリズムギターが好きなんです。電気も使わない。
村上)シャッ、シャッという音がかっこいいですよね。それから柴田さんはギターマニアなんですよね。
柴田)いやあ、そんなことないです。
◆Stevie Wonder「As If You Read My Mind」
村上)次いきますね。次は柴田さんの選曲ですね。スティーヴィー・ワンダーです。
柴田)やっぱり小説の文章を豊かにするのは比喩です。比喩で一番複雑にものが言えるのは、As ifっていう形ですね。LikeなんかだとLike a tigerとか、単にその後に名詞句が来るだけですけど、As ifはAs ifの後に主語が来て動詞が来て、もっと複雑なことが言えるわけですね。だから小説の中で「まるで何々のように」「あたかも誰々が何するように」という比喩で小説家は文章を豊かにするわけですけど、案外、歌ではAs ifって出てこない。
村上)そうですね、あんまり聴かないですね。
柴田)歌はさっきのボブ・ディランじゃないけど、もっとシンプルさが身上になるということが多いから、そう複雑なことは言えないのかなと思って、なかなかAs ifがないなと思って。僕は英語でわからないことがあるとローランド・ケルツ(Roland Kelts)とリサ・カトー(Lisa Kato)の2人に相談するんですけど、だったらスティーヴィー・ワンダーと言われて、リサからこの「As If You Read My Mind」を教えてもらいました。
柴田)いちばん初めに「仮定法というのは現実にはありえないことを考えるものだ」というところから始めましたけど、実際には現実にありえる、ありえないの線引きなんてそんな簡単にできるものじゃなくて、このAs ifというフレーズを聞くと特にそれを感じます。ここでもas if you read my mind、「あたかも君が僕の心を読めるように」っていうのは、別に「読めない」って言っているわけじゃないんですよね。なんか本当に読んでもらっているみたいっていう感じ。本当にas if you touched my soul、まあ soulっていうのを魂って訳しちゃうとなんか「魂に触れてもらっているみたい」というのも気持ち悪いんで、「心の奥に触れてもらっている」っていうふうに言いたいんですけど。とにかく現実にあること、ないことのボーダーラインあたりのことを歌っている感じがしますね。
<スティーヴィー・ワンダーの曲がかかる>
村上)歌ではあんまりないけど、日常生活ではAs ifって結構使いますよね。
柴田)すごく凝った比喩にも使ったりする一方で、As ifの二語だけで「あるわけないじゃん!」というふうに使ったりとか、本当に広いですよね。
村上)この柴田さんの訳した「Let's get high on the happy(ハッピーやってハイになろうよ)」。これはどういうことですか?
柴田)普通だと、Let's get high on~(~でハイになろうよ)と言ったら、次にはどのドラッグをやるのかなって思うわけですよ。でもそうじゃなくて、ハッピーでハイになろうぜっていう。
村上)ハッピーというのはドラッグとかお酒じゃないんですね。
柴田)ドラッグやるより、もう僕たち二人でハッピーになればいいんだよっていう。僕たちって言っちゃったけど、これがなかなか不思議な歌で、最初にClose your eyes ’til the morning朝までずっと目を閉じなよとスティーヴィー・ワンダーが女の子に、あるいは聴き手に歌いかけてるみたいですけど、実はそうじゃなくて、その言葉が、are the very first words I heard come from you、君から出てくるのが聞こえた初めての言葉だったと言ってるんです。だから女の子が語り手の男に、一応スティーヴィー・ワンダーが歌ってるから男にしますけど、に語りかけてくれてるんですよね。
村上)女の子が語りかけてる……。
柴田)そう、だから女の子が僕のことをわかってくれる。心の奥まで触れてくれるっていうことなんです。
村上)僕は男が言ってると思ったんで、ガンガンハッピーやろうぜみたいな感じかなと思ってた……。
柴田)でも、それも大いに一理あるっていうか。さっきAs ifがこの歌だと特に現実なのかそうじゃないかボーダーラインですって言ったように、どっちがIでどっちがyouかというのが、聴いててごっちゃになってくるような感じの歌なんですね。日本語にするとどうしても「僕/君」みたいなふうにジェンダーを決めちゃうんですけど、英語じゃこれ決まらないですからね。だからこのIとyouの関係っていうのは、ごっちゃになっちゃっていいんだと思うんです。
村上)なるほど。でも、これいいアルバムですよね。
柴田)とにかくリズムがすごいですよね。モータウンの黄金時代のアルバムはみんなそうだと思いますけど。
村上)一時期、僕はHotter Than Julyをメールのアドレスにしてたんです。
<番組概要>
番組名:村上RADIO「翻訳夜話」スペシャル~音楽で仮定法を学ぶ~
放送日時:2026年11月3日(火・祝) 14:00~15:55
出演:村上春樹、柴田元幸、坂本美雨
番組Webサイト:https://www.tfm.co.jp/murakamiradio/