
アウトウニオンというブランドというか、自動車会社の連合体が1932年にたちあがったことは、連載86のホルヒの解説で、お話しをした。しかしそのアウトウニオンは、連合体のあったドイツ、ザクセン州が、戦後の東ドイツ領にあったことから、第2次大戦後の活動開始が遅くなった。そもそも、基本ザクセン州にあった会社であるから、戦後は設備の一切を当時のソビエトに接収され、従業員のうち、設計やデザインなどに関わっていた従業員は、ソビエトに移住させられたものもいたそうである。しかし、車自体は東西に分かれた後も、一部は西側で使われていたこともあり、西側に逃亡した一部アウトウニオン経営者によって、新たなアウトウニオンが、バイエルン州インゴルシュタットに設立されることになった。残念ながら4つの輪の象徴であったメーカーのうち、ホルヒとヴァンダラーは、この新しいアウトウニオンのブランドとしては再興されず、ホルヒのみ、東側で1950年代後半まで生産が続いた。
【画像】1950年代のアメリカ車のようなおおらかなデザインが特徴の、アウトウニオン1000SP(写真11点)
というわけで,新生アウトウニオンで作られたのはDKWのみであった。ヴァンダラーについては元の親会社に所有権があり、アウディは休止状態。ホルヒはソビエトが支配していた東ドイツ領で、細々と生産が続いた状態であった。アウディがその名を使って車づくりを始めるのは、1965年になったからのことである。
ブランドとしてのアウトウニオンについて、話をややこしくしたのは、新生アウトウニオンでは、すでに活動の始まっていたDKWと、同じデザインのモデルをアウトウニオン・ブランドで販売したことである。DKWでは1950年にマイスタークラッセと名付けられたモデルの販売が開始された。ついでゾンダークラッセというモデルも投入され、その後1958年から今度は、アウトウニオン・ブランドで、同じスタイリングのモデルを販売した。つまりDKW3=6と名を変えた、かつてのゾンダークラッセを、アウトウニオン1000として販売したのである。
ここで紹介する1000SPは、そのアウトウニオン1000の2座スポーツクーペ、及びコンバーチブルを言う。デビューしたのは1958年のことだが、この年、アウトウニオンはダイムラーベンツ(今のメルセデスベンツ)に買収されてしまう。そしてこの買収によって、デュセルドルフなどにあったDKW生産工場は、その生産を終了し、アウトウニオンとDKWの生産は、インゴルシュタットに集約されることになったのである。
インゴルシュタットでの生産再開に向けては、かつてザクセンの工場で働いていた従業員が数多く、インゴルシュタットに移り住んで再開に貢献したそうだ。また、生産するモデルも、かつてDKWで作っていた2ストロークエンジンが使われ、小型で安価なモデルが主力製品となった。
このアウトウニオン1000は、DKW3=6の兄弟車であったが、クーペとして誕生した1000SPは、アウトウニオン独自のモデルであり、DKWでは生産されていない。このあたりの複雑さは日本でもやはり混同されていて、1963年の第1回日本グランプリには、2台のDKWがエントリーしたことになっている。しかし、井口のぼるが(敬称略)ドライブしたモデルは、実際にはアウトウニオン1000SPで、もう1台、津々見友彦がドライブしたモデルは、紛れもないDKWゾンダークラッセであった。
排気量は異なるが、いずれのモデルも2ストローク3気筒エンジンを搭載し、井口のぼるのアウトウニオンはDKW1000と書かれていたが、正しくは980㏄、55psであった。
ダイムラー支配下で復活したアウトウニオンだが、当時の西ドイツが反映し始めると、より洗練され4ストロークエンジンに人気が移り、2ストロークエンジンの退潮が顕著になると、ダイムラーは株式をVWに売却。こうしてDKWならびにアウトウニオンのブランドが姿を消し、DKWとして作られていた最後のモデルF102は、新たにアウディのブランド名で、エンジンを4ストロークに代えて、投入されるのである。
1000SPのスタイリングは、一目でそれが初代フォード・サンダーバードの影響を受けた(というかほぼパクリ)ものであることがわかる。これは当時、アウトウニオンの取締役だったウィリアム・ヴェルナーが、アメリカを視察した際に見た初代サンダーバードに感銘を受けて、アウトウニオンのデザイナーだったヨーゼフ・ディーンストに対し、サンダーバードと同じ方向性のデザインを作るように指示を出した結果である。ボディの製作は、BMWのカブリオレ制作などで知られる、シュトゥットガルトのコーチビルダー、バウアーが担当した。
1000SPのSPはスポーツを意味するものではなく、スペシャルを意味するものだそうだ。特異な2ストロークエンジンと、FWDの駆動方式を持ち、ブレーキは、初期型が4輪ドラム、1962年以降はフロントにディスクが装着されたモデルだった。1965年まで生産され、その総量はクーペ、5004台、コンバーチブル1640台であった。因みにコンバーチブルの生産は、1961年からである。
ロッソビアンコに展示されていたモデルは1961年以前の前期型のモデルで、外観からは初期型のテールフィンが鋭く尖っていたのに対し、後期型は角を丸めた柔らかいラインとなっていることからそれとわかる。
文:中村孝仁 写真:T. Etoh