自分以外の誰かを理解したい一方で、自分自身のこともわかってもらいたい。そんな満喜子の姿は、役を演じる俳優の仕事にも通じる部分があるのではないか――そう尋ねると、岸井は少し考えてから、こう答えた。
「役のことは“自分が一番わかっていたい”とは思います。でもそれはあくまで私の目線からでしかないんですよね。自分の役の気持ちは説明できるし、“多分こういう気持ちなんだと思う”と言えるけれど、それを監督がどう思うかは、また別の話です。
だから、“自分が考えてきたことが正しい”とは思わない。ただ、自分の中ではちゃんと整理がついているから、監督にこう言われたらこう返せる、というだけなんです」
役への理解を深めることと、自分の解釈を正解として固定することは違う。岸井は、その違いを大切にしている。
「“満喜子のことは、私が一番わかっているから!”と意固地になってしまうのが、私にとっては一番面白くない。台本を読んで“私はこう思った”とか、“自分はこう解釈した”という違いが、人によって生まれるのが面白いんです。監督は全体を見る人で、私の気持ちは私のもの。そういう分担があると思っています。“わかっている”とは思いつつ、柔軟さは消したくない。そこをうまく分配できる方が私は面白いです」
さらに他の俳優が役をどう捉えているかを知ることも、この仕事の醍醐味だと語る。
「言葉で説明するのではなく、芝居でやり取りをしたときに、体全体から“うわぁ…!”と感じ取る瞬間が、私は好きなんです」
今回、満喜子を演じる岸井自身も、役との距離感を意識していたそうだ。
「作品によって、自分の思いと役があまりにも近いときもあれば、もう少し遠くから見守っているときもあります。今回は事件を経験した人物なので、私自身が満喜子を観察したいという気持ちがありました。距離が近いというより、もうちょっと客観視していたかもしれません。今、自分が見ている満喜子が、本当に真実なのかもわからない。そういうところにいたので、“私は満喜子の観察者である”という立場でした」
「誰にも言わないから書いてる」日記に残す感情の蓄積
『ユージニア』では、過去の記憶と記録の食い違いも重要なテーマとなる。岸井自身も最近、母親と昔話をした際に、同じ出来事について、自分とはまったく違う受け止め方をしていたことに気づいたという。
「私にとってはちょっと嫌な思い出だったことを、母は全然嫌な思い出だと思っていなくて、むしろいい思い出だと言ったんです。“母と自分とでは、全然見え方が違う!”と思いました。話を聞いてみると、確かに、そんなに悪い思い出でもなかった。自分ではちょっと面倒なことに巻き込まれたという記憶だったんですけど、ひも解いてみると、もっとシンプルな出来事だったのかもしれないと思いました」
同じ場所にいて、同じ経験をしていても、記憶の残り方は人それぞれ。では、自分の経験や気持ちを他者と共有することについては、岸井はどう考えているのだろうか。
「今も、自分のエピソードを人に共有することはあまりしないですね。“最近、どこどこでこんなことがあってさ”という話は、あまりしないんです。でも、一緒に湖に行くとか、そういう経験は共有できるじゃないですか。私はそっちの方が好きですね」
過去に出版したエッセイ『余白』でも、自分の気持ちをあまり人と共有しないことについて触れていた岸井。日記のように文字を書く習慣は、今も続いているという。
「日記を読み返すと、過去の自分に対して“大げさだな”と思いますね。喉元過ぎれば…じゃないですが、ツラさって、そこから抜けると忘れてしまうじゃないですか。でも、ツラいときに書き留めるから、当時の自分はすごくツラそうなんです。後から見ると大げさに感じるけれど、そのときはそりゃツラかったよね…とも思います。“書いて発散できていたならよかったね”って。私の場合、誰にも言わないから書いてるんです」
自分の本当の気持ちを言葉にするのは、必ずしも、誰かに伝えるためとは限らない。岸井は「誰にも言えないタイプではなくて、私はただ言わないみたいです」と笑う。
日記に書き残した言葉は、時間がたってから読み返すことで、当時の自分を客観的に見つめる手がかりにもなる。役作りにも、そうした蓄積が生きているのだろうか。
「あると思います。具体的に、どの時に書いた、どの内容が、どういう風に役に立っているというよりは、蓄積ですね。“岸井ゆきの”としての気持ちの記録でもあるので」
自分の記憶も、他者の気持ちも、すべてを理解することはできない。それでも、わかろうとすることをやめず、自分の解釈を手放す余地も残しておく。岸井が満喜子を演じるなかで大切にしていた姿勢は、作品が描く「わからなさ」とも重なっている。
事件から30年がたっても、関係者たちの人生を縛り続ける記憶。果たして、その記憶の先に、それぞれが信じる真実はあるのか。岸井が「観察者」として向き合った満喜子の姿を通して、観る側もまた、自分が見ているものを問い直すことになりそうだ。

