
あまりに有名なイタリアのブランド、マセラティ。そしてそのヒストリーも、マセラティ兄弟によってメーカーが作り出されたことは、あまりにも有名だが、マセラティの話を進めるには、まずディアット(Ditatto)というメーカーの話をしなくてはならない。
【画像】マセラティが作った完成車はわずか2台という希少なマシン、8C 3000(写真7点)
マセラティ兄弟は、5人で自動車メーカーを作ったことになっているが、実は兄弟は7人で、このうち一人、3男として生まれたアルフィエーリは、わずか1歳で亡くなっている。マセラティを有名にしたアルフィエーリは、実は亡くなったアルフィエーリの後に、4男として1887年に生まれた二人目のアルフィエーリであった。
全く余談ながら、マセラティ兄弟を描いた映画が、今月(2026年10月)、イタリアで封切られる。タイトルも「マセラティ ザ・ブラザーズ」というもので、まさに兄弟の話を描いたもののようだ。果たして日本で上映されるか否か不明だが、不評に終わったフェラーリの映画と異なり、こちらのキャストは錚々たるもの。アンソニー・ホプキンス、アル・パチーノ、アンディ・ガルシアといった配役陣が出演している映画である。
そんなマセラティ兄弟は、アルフィエーリ、エルネスト、それにエットーレの3人で、彼らの会社を立ち上げた。1914年のことである。と言っても、初めから自動車を作ったわけではなく、初めは航空機用のスパークプラグを作ったそうである。4男だったアルフィエーリは、クルマをドライブする才覚と、エンジニアとしての才覚を持ち合わせ、その才能を発揮したのが、ディアットでのことであった。
このディアットという会社は、フランスのブガッティと縁が深く、直列8気筒の航空機エンジンを共同開発したり、ディアットのシャシーにブガッティのエンジンを搭載したレーシングカーを作ったりしていた。1927年にディアットは、「ティーポ26」の名を持つニューモデルを投入するのたが、ディアットにとって、これが最後のモデルとなった。実はこのタイプ26を設計した人こそ、アルフィエーリ・マセラティ自身であった。
1929年に、ディアットは自動車の生産を終了するが、タイプ26の設計者であったアルフィエーリ・マセラティは、この車をそれ以前に自らの工房に持ち帰り、改良版を、新たにマセラティ・ティーポ26として、登場させたのである。これが彼らにとって初の、マセラティの名を冠したモデルとなったのだ。ディアットとして生を受けたティーポ26をドライブしたアルフィエーリ・マセラティは、1927年のコッパ・メッシーナのレースで事故を起こし、一命はとりとめたものの、これがもとで彼は、1932年に44歳の若さで帰らぬ人となる。
だが、死を前にアルフィエーリは、マセラティの将来にとって重要な作品を残していた。そのひとつはFWDのシャシーで、これはものにならなかったものの、もうひとつのエンジンはものになった。DOHCヘッドとルーツタイプスーパーチャージャーを組み合わせた、3リッターの直8エンジンである。基本はティーポ26のものを、進化発展させたものであったが、ある意味これがアルフィエーリの遺作であった。もっともこのエンジンの完成を待たず、アルフィエーリはこの世を去っているが、彼の死を受けて、新たに工房に加入したビンドと、残った兄弟によって完成されたという。アルフィエーリが作り上げたティーポ26のシャシーに、このエンジンを搭載して誕生した車が、8C3000と呼ばれるモデルである。
マセラティが作った8C3000の完成車は、わずか2台。これに加えて2基のスペアエンジンが制作されたという。シャシーナンバーは、それぞれ3001と3002で、いずれのモデルも60年代初頭にはヨーロッパを離れて、アメリカに渡っていたそうだ。どちらも制作されたのは1933年、すなわち第2次世界大戦前。このうち3001は、その年のフランスGPで勝利した。
ロッソビアンコに収蔵されていたのは、もう1台の3002であり、こちらはワークス活動ではなく、同じ年にベントレー・ボーイズとして名高い、サー・ヘンリー・バーキンによって購入され、彼はこのマシンでトリポリGPに出場、3位の成績を得る。ところがその際、エクゾーストパイプに前腕が触れて火傷。イギリスに帰国後その傷を放置した結果、敗血症を発症。さらにマラリアにも罹患して、その年に亡くなることになるのである。
そして何人かのオーナーを経た後に、1980年代になってピーター・カウスが購入し、ロッソビアンコ博物館に展示されることになったのだ。ロッソビアンコ閉館後は、多くのロッソビアンコ収蔵車を引き継いだ、オランダのローマン博物館に展示されている。
文:中村孝仁 写真:T. Etoh