
すでに様々に報道されている通り、WEC富士6時間はトヨタレーシングの#8号車、平川亮/セバスチャン・ブエミ/ブレンドン・ハートレー組が、大逆転で手に入れた首位を死守し、劇的な勝利を収めた。残り1時間を切ってGT3クラスのマクラーレンが第1コーナーで大クラッシュ。セーフティカー導入のピットイン時にあえて給油量をセーブし、前日から5回目のピットストップまで圧倒的なパフォーマンスを見せていたアルピーヌの#35号車と#36号車からリードを奪う頭脳プレーだった。残り25分を切ってグリーンフラッグが振られ、そのまま#8のアンカーを務めた平川亮が#36のヴィクトール・マルタンスの追撃をおさえ切ってチェッカーを受けたのだ。
【画像】ドラマティックな展開を見せた2026年WEC富士6時間のトヨタとアルピーヌ(写真13点)
昨年の富士に続いて、2連覇を狙っていたアルピーヌ・エンデュランスことシグナテックには厳しい結末となった。だが首位をずっと快走していても、ラスト20数分で再度のスプリントレースを強いられるような展開は、耐久レースならでは。6時間は短いようで、そもそも同一周回に近いポジションとペースを保っていないと、チャンスが訪れても勝利を争えるレベルにない。そこが耐久レースの過酷さだからこそ、富士を訪れた7万2400人超の観客には見ごたえあるレースとなった。
土曜の予選が荒天中止となり、FPセッションで際立ったタイムを残していなかったトヨタレーシング勢は、スタートグリッドでは後方に沈んでいた。とはいえ、後講釈になるが決勝の朝、パドックで開かれたトヨタレーシングの会見で、中嶋裕樹副社長と上原隆史マネージングディレクターのコメントからは、勝者のメンタリティが少なからず感じられた。決勝レースの展開に関わる部分では、「最後まで諦めないこと」を、二人とも異口同音に繰り返したのみ。むしろ、その場に居合わせた記者からの質問は、前日に発表されたACOの「H24EVO」プロジェクトへの水素エンジン供給と、将来的な見通しに集中した。その中で水素技術の市販車への応用や広がりについて、中嶋副社長は以下のように述べた。
「まず一般的に今、水素(技術)が爆発的に急激に広がるとは思っておりません。でもハイブリッドシステムもそうだったと思うのですが、始めたばかりの頃は市場も全然成熟しておらず、残念ながら別に収益性が高かったわけでもない。ただ未来に向けて一石を投じることで、生意気な言い方になりますが、唯一のマーケットを作っている可能性もあります。粛々と続けていくしかないです。とはいえ欧州にも一緒にやろうと手を挙げてくれるサプライヤは何社かある」
「トヨタのような大きな会社は、全体が右に行くと自分も右でいい、という風になってしまいがちなんですね。でもエンジニアたる者は自分が信じたことをしっかり追求すればいいし、そのためには組織の上下もない。想像した結果がついてこなければ残念は残念ですが、失敗が積み重ねられる。自分たちの意図する技術を磨くためにどうすればいいのか。車の収益だとかレースに勝つことだけではなくて、この技術を活かすためにどうしたらいいかという回答が生まれ始めている」
欧州でも水素エンジンの実用上の可能性は大型トレーラーや商用車・トラックといった産業や輸送の分野に限られそうな見通しが、徐々に支配的になりつつある。しかしスポーツギアとしての水素エンジンという道筋は、今回の富士でのACOの発表によって補強されたといえる。いずれにせよ、技術として使える状態にもっていくことが先決というのが、トヨタの現在地だ。いまだ見えぬ道筋に向かって積み重ねを怠らないところ、並み居る強豪を倒してル・マン24時間をも制し、10数年間も耐久レースの最高峰を闘ってきたトヨタレーシングには、今やふさわしい風格が漂い始めている。、
一方で、勝ちに値するレース運びをしながら、最後に追撃及ばず2位と4位に甘んじたアルピーヌのピットで、レースディレクターとして指揮を執っていたのが、GRトヨタ初期の耐久チーム体制を支えたニコラ・ラピエールだったことは、皮肉な巡り合わせでもある。今シーズン限りでWECから撤退を決めているアルピーヌは、A424で3シーズンを闘っているとはいえ、そしてワークス体制とはいえ、潤沢な資金でもって参戦してきた訳ではない。ハイパーカーで唯一の総合優勝を遂げたのが昨年の富士ということもあって、ドライバーたちは元よりクルーたちの気合いも並々ならぬものがあった。
決勝に先立つピットウォークの時間帯、コース上では「ホットラップ」が催されていた。アルピーヌも、A110 Sで昨年の優勝ドライバーの一人、フェルディナント・ハプスブルクのドライブで富士のコースを周回するというプログラムを催し、ジャーナリスト数人が経験した。
あくまで体験走行とはいえ、FIAルールでトラック上にカメラやバッグといった余分な身の回り品の車内持ち込みは禁止。かくして走行中の車内撮影はスマートフォンに限られた。何でもアルピーヌ・エンデュランスのチーム広報、ブルチュ・セティンカヤ氏によれば、ハプスブルクはホットラップのドライバー役を、自ら進んでこなしているのだとか。彼は、Marys Meals(メアリーズ・ミールズ)という慈善団体とコラボしてRace for Meals(レース・フォー・ミールズ)という個人基金を運営しており、寄せられた募金を、東アフリカはマラウィの児童たちの日々の学校給食のために寄付している。もし母国オーストリアがいまだ君主制だったならば皇嗣の筆頭である異色のドライバーは、ノブレス・オブリージュの体現者であるがゆえ、モータースポーツ体験の裾野を広げるような「公益性の高いサービス」に積極的に従事するのだとか。
右ハンドル仕様のA110 Sの助手席に乗り込み、短く挨拶を交わすと、ハプスブルクは慣れた様子で全開加速に移った。筆者は普段、A110リネージこと252ps仕様の左ハンドル仕様に乗っているが、いつもの車内に似た眺めながら、自分ではウェット路面で絶対にしたことのない加速ぶりに、腰の辺りがソワソワした。1コーナー手前でブレーキングに入る直前、190㎞/h弱まで出ていることは確認できた。ハードブレーキングで当然のように前輪がグリップを失うが、少しペダルを緩めて回復させつつ、ほとんどブレーキングドリフトで2コーナー出口へと周り込んでいく。改めてA110の穏やかな挙動変化と、トラクションのかかりの良さに感心させられた。100R出口では高速の4輪ドリフト状態だったが、べったりと濡れた路面でも、無駄がなく修正舵は最小限。ハプスブルクのそんなマシンコントロールのミニマルさにも驚きつつ、富士でA110 Sのシャシーをどう感じるか、尋ねてみた。すると意外な答えが返って来た。
「悪くないよ。それどころか、すごくいいね。ていうか、実際に走らせているレースマシン(A424)にけっこう似ているんだ。重量も同じようなものだし」
いくらなんでもハイパーカーと、ライトウェイトとはいえ市販スポーツカーが似ている…というのはリップサービスに思えたが、A424は1030㎏、A110シリーズは1100㎏前後。確かに雨の路面なら、ミドシップである点も含めて似たところはあるのかもしれない。ちなみにアルピーヌはレース直前に、1台あたり3名のドライバー体制だったところを敢えて2名に削った。1人あたりの走行時間をFPセッションから長くとり、各ドライバーとマシンの習熟度を上げて、地元のトヨタ勢に対し富士でのウェット経験の不足を埋め合わせる、そんな戦略を採った。ホットラップ中も、路面状態をじっくり確かめながらマシンを操るハプスブルクの様子は、その延長とも思えた。
実際、決勝でフロントローからスタートして、5時間過ぎまでほぼ1-2体制を敷いていたアルピーヌのオンボード映像を眺めていると、どのドライバーが乗っていてもステアリング操作をしながら修正舵を当てる動きがほとんどなく、ターンインから素直な操縦性の高さが窺えた。
ところでアルピーヌは今回のWEC富士に先立って都内で記者会見を開き、次世代のAPP(アルピーヌ・パフォーマンス・プラットフォーム)はモジュラー・プラットフォームで、2座のクーペボディ以外に、コンバーチブルや2+2シート、さらには後輪2駆だけでなく4駆にも対応できると言明した。バッテリー配置も前後に分割する、あるいはフロア下に収めることが可能な次世代プラットフォームは、左右輪のベクタリングや統合制御も多々入れることで、アルピーヌならではの軽さやアジリティの感覚を守り続けるという。アルミニウム製のアーキテクチャ自体はA110に相似しているが、補強リブの形状や入り方は、かなりの別物といえる。生産設備やライン上は最低限の変更で、複数のモデルを生み出す体制であり、電動A110のみならずA310も将来的に開発することを明言している。
ちなみに今年6月いっぱいで生産が終了したA110 IIは、9年近い期間を経て2万8701台が生産されたに過ぎない。そもそもディエップ工場で生産されたA110は、初代A110を加えても3万5450台という少なさだ。ゆえにアルピーヌが今後採る戦略は、車種ラインナップと販売台数の拡大路線だ。A290はルノー5 E-テックと同じノルマンディのドゥエ工場で生産されており、現在ディエップ工場を稼働させているのはA390。後者の、従来の一日あたり最大20数台という生産能力を、50~60台前後には引き上げていくと、フィリップ・クリエフCEOは今回の来日で述べた。自動車のビジネスとしていかにも小さな規模に見えても、アルピーヌにとって日本はグローバルでつねに3~4番目の販売台数を誇る市場であり、重要性は高い。
いわば9月に行われるWEC富士6時間は、アメリカに続くシーズン後半という、純粋にスポーツ上の観点だけから重要なラウンドではない。今や有力コンストラクターの代表格となったトヨタの地元開催レースであり、ル・マン24時間と年末恒例のACO会見の中間報告として、WECシリーズの将来を見通す重要発表の場としても機能している。しかも富士戦の直後、FIAとACOはWECシリーズの契約を2037年にまで延長したという合意を発表した。おそらく水素パワートレイン開発とレギュレーション策定、カーボンニュートラル化が条件になっていたところに、トヨタとACOの協業で弾みがついたからこそだろう。
もちろん、トヨタレーシングのル・マン24時間における総合優勝が、3日間で観客動員数7万2400人超という、前年比+10%近い伸びに繋がっていることは間違いない。が、長年温め続けてきた水素エンジンの技術がついに世界規模の檜舞台にのったトヨタと、今年限りでWECを撤退して電動市販車を通じてブランドの拡大戦略に集中するアルピーヌとで、打ち出した方向性も対照的なら、レースの結末においても明暗が分かれた年として、長らく記憶されるのではないか。アストンマーチティン・ヴァルキリーやプジョー9X8もパフォーマンスの質を上げてきたが、終盤の競り合いを鑑みれば返す返すもアルピーヌの撤退は惜しまれるところだ。
文・写真:南陽一浩 Words and Photography: Kazuhiro NANYO