馬の街の城に、古い車が並ぶ日|ヨーロッパ遺産の日、メゾン=ラフィットにて

年に一度、フランス中の扉が開く週末

9月の第3週末、フランスでは普段は入れない場所の扉がいっせいに開く。ヨーロッパ遺産の日(Journées européennes du patrimoine)だ。始まりは1984年、フランス文化省が企画した「歴史的建造物の一般公開日」。これが好評で、やがて欧州評議会が引き取ってヨーロッパ全体の催しになり、いまでは約50か国が参加している。大統領府も省庁も、個人所有の城館も、この2日間だけは無料か、それに近い形で人を迎え入れる。

【画像】歴史的建造物にクラシックカーが映える。ヨーロッパ遺産の日に訪れたメゾン=ラフィットの城(写真19点)

43回目となる2026年は9月19日と20日。テーマは2つあって、写真誕生200年にちなんだ「写真の遺産」と、ヨーロッパ共通の「危機に瀕する遺産」。後者には「よみがえらせる、抗う、思い描き直す」という副題がつく。

僕が日曜に向かったのは、住んでいるサン=ジェルマン=アン=レーから森をひとつ抜けた先、メゾン=ラフィットの城である。この日だけ、城のテラスと庭に古い車が並ぶと聞いたからだ。

マンサールの最高傑作と、壊された厩舎

城の主はルネ・ド・ロングイユ。パリ高等法院の高官で、サン=ジェルマンとヴェルサイユの総督も務めた人物だ。設計はフランソワ・マンサール。現地の案内板は完成を1646年としている。中央棟と両翼の量感の出し入れだけで奥行きを作り出す正面は、フランス古典主義の教科書のような姿で、後のヴェルサイユへと続く流れの出発点に立つ建物と言っていい。1651年4月20日、13歳のルイ14世が母アンヌ・ドートリッシュと共に落成の宴に招かれている。

1777年、城はルイ16世の弟アルトワ伯、のちのシャルル10世の手に渡る。「鏝(こて)への断固たる嗜好」と同時代の回想録に書かれたほどの建築道楽で、バガテルの館を建てたのと同じ年だ。お抱え建築家フランソワ=ジョゼフ・ベランジェが内装を新古典様式に改め、1781年と1783年には国王の宮廷を迎える大きな宴が開かれた。

革命後はナポレオンの盟友ランヌ元帥が買い、1818年に銀行家ジャック・ラフィットの所有になる。町の名に残るこの人物が、城にとっては功罪の両方を背負っている。事業に行き詰まったラフィットは1830年代に広大な庭園を分譲地として切り売りし、買い手を呼び込むために大厩舎を取り壊して、その石を建材として安く売った。いま城のまわりに広がる緑の多い住宅地「パルク」は、その分譲の名残である。

最後の個人所有者は、サンクトペテルブルク生まれの画家ヴィルヘルム・ティルマン・グロメ。1877年に城に入り、フィンランドの画家たちを招いて制作の場にしたが、維持費で財産を使い果たし、1900年に亡くなったとき城は空っぽで借金まみれだった。そして1905年、取り壊し寸前のところを国が買い取る。「危機に瀕する遺産」という今年のテーマは、この城自身の来歴でもある。

館の中で

無料開放の館内は、家族連れがのんびり歩いている。2004年から2006年の発掘で本来の姿が分かった浴室には、深さ1メートルの多葉形の浴槽が残り、主人の寝室と王の寝室の両方から小さな階段で降りてこられる造りだった。湯は赤銅の蒸留器のような炉で沸かしたという。

2階の大広間には、ラフィットが注文したイタリア風景の大画面が並び、その先のヘラクレスの間には戴冠式装束のルイ14世が掛かる。1階のアルトワ伯の食堂には朝の食卓が整えられ、その真下の厨房には17世紀の宴の皿が再現されている。書棚に囲まれた質素な机で書類に埋もれるルイ18世の肖像は、宮廷画家ジェラールの原画だ。この城の主だった弟アルトワ伯が、翌年その王位を継ぐことになる。

2021年には、巻かれたまま収蔵庫で忘れられていたグロメの大きな油彩が7点見つかった。青空を背にした古代の女神たちで、かつては2階の「鏡の間」で、外された鏡の代わりに壁を飾っていたものだ。城の友の会の支援で修復され、館内に戻っている。

この日は庭園の北西の端にある「カーヴ・デュ・ノール」も公開されていた。名前は地下蔵だが実際は蔵ではない。1660年からマンサールがロングイユのために築いた狩猟用の館群と空堀の跡で、サン=ジェルマンの森に向かって開く「王の入口」だった。革命後に少しずつ消え、いまは馬蹄形の壁と2つの稜堡、館がひとつ残るだけ。2024年に遺産くじの支援対象に選ばれ、修復が進んでいる。

なぜ、城に車なのか

正直に書くと、この城と自動車のあいだに歴史的な縁はない。車を並べたのは地元の旧車クラブ、EVAMM(メゾン=ラフィットとル・メニル=ル=ロワの旧車エキュリー)で、城と友の会との共催だ。毎月最終日曜の午前、町の競馬場の駐車場に30年以上前の車とバイクが集まる。その延長が、年に一度だけ城のテラスに上がってくる。

ただ、クラブが名乗る「エキュリー」は、もとは厩舎を指す言葉だ。メゾン=ラフィットは1878年に競馬場が開いて以来「馬の街」と呼ばれ、いまも住宅地の並木道を調教帰りの馬が歩いている。ラフィットが石にして売ってしまった大厩舎の跡地のすぐそばで、町の人たちが自分の「厩舎」から古い車を引き出して並べる。そう思って眺めると、ただの近所の集まりが少し違って見えてくる。

クラブが目的に掲げるのは、自動車という遺産の保存と、世代をつなぐこと。国が救った城と、個人が救った車。規模はまるで違うが、やっていることは同じである。

会場の車たち

テラスに並んだのは、1948年のトライアンフ1800ロードスターに同じ年のモーリス・エイト、フルシャンボー生まれのヴェスパ400、ファセルが手叩きで作ったシムカ8スポール、右ハンドルのまま大西洋を渡ったMG TCに、その大西洋から里帰りしたEタイプV12。庭の並木道には、13か月だけ作られたトライアンフTR5とMGBが木陰に収まっていた。どの1台にも、フロントガラスの内側にクラブが用意した技術カードが挟まれている。

城の裏の1台

テラスの賑わいを離れて城の裏手にまわると、1台だけ、別格の扱いで置かれた車があった。フォード・モデルT「スピードスター・クンペルK9」、エンジン番号851802。1915年製、2.9リッター4気筒。1922年にスピードスターへ改造されている。

経緯が面白い。セントルイスで建築用の装飾鉄製ファサードを全米に通販していたメスカー・ブラザーズ・アイアン・ワークスの跡取り、フランシス・メスカーが16歳になった1922年、父ジョンが「金属と機械を体で覚えろ」と、指導役をつけてこのT型を改造させた。ボディはアイオワの金物商クンペルが6ドル40セントで売っていた実寸型紙「Red-I-Kut」から木骨と外皮を起こしたもので、足まわりはインディアナポリスのモートン&ブレットのアンダースラング部品、ホイールはハウス製のワイヤー、前輪にはラジョ製の「セルフステアリング」スピンドル。当時の自動車誌の広告欄がそのまま走っているような構成だ。

完成した車は乾いた場所にしまわれ、100年で走行は数十キロ、一度も分解されていない。1980年代にセントルイスの交通博物館に寄贈され、2005年に博物館を出て、2022年に初めて公道を走った。1922年に16歳の少年が組み上げ、そのまま100年しまわれていた車が、17世紀の城の陰に黙って座っている。「遺産の日」にいちばんふさわしい展示は、案外この1台だったのかもしれない。

庭をひとまわり

表に戻ると、ちょうど車の紹介が始まっていた。1台ずつ名前と年式が読み上げられ、呼ばれた車がエンジンをかけて、円形の水盤を回りながら庭をゆっくりとひとまわりする。速さを競うわけでも、審査員が点をつけるわけでもない。持ち主が窓から手を振り、見物の子どもが手を振り返す。それだけのことだ。

マンサールの正面の前を、古い車が歩くような速度で横切っていく。かつて王の狩りの一行を送り出した庭である。厩舎を失った城に、年に一度だけ町のエキュリーが帰ってくる。そういう日曜だった。

Château de Maisons

2 avenue Carnot, 78600 Maisons-Laffitte

www.chateau-maisons.fr

写真・文:櫻井朋成 Photography and Words: Tomonari SAKURAI