
すべてはこの傾斜から始まった
ロンドンの南西、ウェイブリッジの森の中に、苔むしたコンクリートの壁が弧を描いて立ち上がっている。かつて世界最速のマシンが駆け上がったバンクの残骸だ。2026年、英国グランプリは100歳を迎えた。その第1回が開かれた場所が、このブルックランズである。
【画像】英国グランプリ100周年を祝い、現役のF1から黎明期のマシンまで、100台を超えるグランプリカーがブルックランズに集結(写真35点)
100年前の8月
1926年8月7日、英国王立自動車クラブ(RAC)の主催で「RACグランプリ」が開催された。1周2.61マイル(約4.21km)のコースを110周、総距離約463kmで争うレースだった。オーバルの一部に加えてフィニッシング・ストレートも使い、給油ピットの前後には砂を盛った仮設シケインが2カ所置かれた。高速のオーバルに、公道レースの趣を持ち込むための工夫である。
出走はわずか9台、完走は3台。4時間を超えるレースは、排気管の熱が運転席を焼く過酷な戦いになった。表彰台の頂点に立ったのはロベール・セネシャルとルイ・ワグネルの組むドラージュで、2位はブガッティに乗ったマルコム・キャンベル、3位にはロベール・ブノワとアンドレ・デュボネのドラージュが入った。英国初のグランプリは、フランス車の独壇場で幕を開けたのである。
それから100年後の今年8月、ブルックランズではこの節目を祝う催しが開かれた。現役のF1から黎明期のマシンまで、100台を超えるグランプリカーが集まり、その一部は1926年と同じ路面を実際に走った。
時速20マイルの国
なぜ英国初のグランプリはサーキットで開かれたのか。答えは、当時の英国の法律にある。
自動車の黎明期、英国は安全を理由に、車の前に赤旗を持った人を歩かせるよう定めていた。規制が緩んだ後も、1903年の自動車法によって公道の速度は一律時速20マイル(約32km/h)に制限された。世界の新車のほぼ半分がフランスで作られていた時代に、これでは英国の自動車産業は高速試験すらできない。そうした危機感があった。加えて、英国本土では公道でのレースそのものが禁じられていた。フランスが都市と都市を結ぶ街道レースで盛り上がり、1906年にはル・マンで「グランプリ」の名を冠した最初のレースが開かれた頃、英国の走り屋たちには走る場所がなかったのだ。
そこで動いたのが、地元の地主ヒュー・ロック・キングと妻エセルである。周回路は1500人の作業員によってわずか9カ月で造られ、費用は15万ポンドにのぼった。幅約30mのコンクリート舗装のオーバルで、場所によってはバンクの高さが約9mに達した。開業は1907年6月17日。世界初の本格的なバンク付きサーキットの誕生である。最初の公式イベントはセルウィン・エッジによる24時間連続走行で、60馬力のネイピアを駆って約2544km、平均時速約106kmという記録を打ち立てた。
実はこの構図は、自転車の時代から変わっていない。記録に残る最初の自転車レースは1868年、パリの公園で開かれた。一方の英国では、劣悪な道路と厳しい法律のせいで、自転車の公道レースもままならなかった。代わりに発展したのが、ハーン・ヒルやパトニーのバンク付き競技場でのトラックレースだ。その傾斜の設計が、ブルックランズの形にも受け継がれた。開業した1907年には、早くも100マイルの自転車レースがここで開かれている。
会員制クラブの色が濃いのもブルックランズらしさだ。1907年に建てられたクラブハウスは今も博物館の中心に残り、この場所の精神は「the right crowd and no crowding」という言葉に集約されていた。ふさわしい人々が、ゆったりと集う場所。英国の上流社会の価値観が、そのままコンクリートの形になったようなサーキットだった。
モンレリーという鏡像
このブルックランズを眺めていると、僕がオクタンで何度も書いてきたパリ南郊のモンレリーが自然と重なってくる。
モンレリーの速度リングは、ブルックランズとインディアナポリスに触発されて生まれたものだ。実業家アレクサンドル・ランブランの依頼でレイモン・ジャマンが設計し、1924年10月4日に開業した。全長は2548m、コーナーのバンク角は最大52度に達する。ランブランは自らのコースを、当時の速度に見合う巨大な自転車競技場になぞらえた。2つのオーバルは、どちらも自転車競技場の血を引いているのだ。
同じコンクリートのオーバルでも、両者の設計思想は対照的だ。ブルックランズは砂の地盤にコンクリートを流し込んで造られた。そのため年月とともに路面が不均一に沈み、次第に凹凸の多い荒れた走り心地になっていった。いっぽうモンレリーは、3300本の柱と8000本の梁で組んだ骨組みの上に鉄筋コンクリートの路面を載せた最初のトラックで、バンクの下には24のガレージが設けられた。コーナーは放物線状に反り上がり、直線との接続部は対数螺旋で描かれている。17年の技術の差が、そのまま形に表れているのだ。
そして2つのオーバルは、同じ1台のマシンで結ばれている。1925年、モンレリーで開かれたACFグランプリを制したのはブノワとディーヴォのドラージュだった。翌1926年、ブルックランズの第1回英国GPでもドラージュが勝つ。ジャクソン・シェッドに置かれた紺の15-S8「シャシーNo.2」は、そのときチームのスペアとして帯同していた1台だ。この車は翌年に向けた改良型の原型となり、1927年にはブノワの手で英国GPを制して、ドラージュにメーカー世界選手権をもたらした。1926年と1927年の両方の英国GPに姿を見せた、唯一のドラージュである。
1929年、この車を手に入れたのはマルコム・キャンベルだった。翌年W.B.スコットの手に渡り、1931年にはモンレリーでクラスFの24時間世界記録を、1933年にはブルックランズで同じくクラスFの12時間世界記録を打ち立てた。ドーバー海峡を挟んだ2つのバンクの両方に、この車は轍を残しているのだ。
2つのサーキットの縁は、この1台だけではない。ERAシェッドのネイピア・レイルトンは、ブルックランズ、モンレリー、ボンネビルで数々の世界記録を塗り替えた。サイドカー付きのノートン「LPD1」を操ったバート・デンリーは、500ccの単車で初めて時速100マイルに達したライダーで、その壁を破ったのも海峡の向こうのモンレリーだった。ブラフ・シューペリアの「ワークス・スクラッパー」が世界最速の座を手にしたのも、モンレリーにほど近いアルパジョンの直線である。英国の速度は、しばしばフランスで仕上げられたのだ。
違いは、その後の運命だ。モンレリーはUTACの試験場として今も生き続け、クラシックカーのイベントでエンジン音が響く。しかしブルックランズのバンクは、1939年の夏を最後に、二度とレースの音を聞くことはなかった。
小屋に残った時間
ブルックランズ博物館を歩いて何より心を惹かれたのは、豪華な展示棟ではなく、パドックに並ぶ木造の小屋だった。戦時中の転用や航空研究を経ても、クラブハウスとともに、かつてレーサーやチューナーが店を構えた小屋の多くが生き残った。博物館の自動車展示は、修復されたこれらの工房そのものの中にある。
その筆頭がキャンベル・シェッドだ。陸上速度記録保持者マルコム・キャンベルが1926年に最初の小屋を建て、1931年に拡張した。第1回英国GPで2位に入ったあの年である。キャンベルは1935年頃まで、ここを事務所兼工房兼ショールームとして使い、記録車ブルーバードもしばしばここに置かれ、ときにはここで組み立てられた。
気まぐれなキャンベルが興味を失った後、この小屋を引き継いだのがトムソン&テイラーである。1927年、ブルックランズ随一の技術者J.G.パリー=トーマスが記録車バブズで命を落とすと、仲間のケン・トムソンが事業を継ぎ、ケン・テイラーを迎えて生まれた工房だ。技術責任者には、パリー=トーマスの下で腕を磨いたレイド・レイルトンが就いた。彼らは1930年代の英国モータースポーツで中心的な役割を果たし、ジョン・コブのネイピア・レイルトンと陸上速度記録車ネイピア・スペシャルを製作し、ERAのシャシーやキャンベルのブルーバードも手がけた。現在この小屋には、レーシングカーのほか、ドライバーの書斎やエンジニアの工房が再現されている。
キャンベル・シェッドと内部でつながるのがERAシェッドだ。パドックの工房の中では最も新しく、1930年代末に完成した。使っていたLBBモーターズが2階建てバスをディーゼル化する仕事をしていたため、扉は異様に高く作られている。2棟を合わせた展示「ザ・ファステスト・オン・アース」は、ブルックランズで達成された数々の速度記録と、世界各地で記録を打ち立てたドライバーやライダー、メカニック、エンジニアたちの物語を伝えている。
1931年に建てられたジャクソン・シェッドも見逃せない。「ロビナリー」の愛称で知られ、レーサーでもあったロビン・ジャクソン率いる少数精鋭のエンジニアたちが、最高水準の整備とチューニングを施した工房だ。内部には1930年代の工房がそのまま再現され、ジャクソンのチームが実際に使った工具や作業台、棚が並ぶ。エンジンのわずかな調整ひとつが勝敗を分けた時代の空気が、油の匂いとともに残っている。今年6月27日からは、この小屋で第1回英国GPから現代のF1までを辿る新しい展示が始まった。
さらに、1927年に建てられたレーシング・ロックアップが並ぶ。ドライバーやライダーが借りてマシンを保管し、レースに備えた貸しガレージだ。借り手は次々と変わったが、扉には借り主の商号が色鮮やかに描かれたものもあった。ペンキの剥げかけた扉の前に立つと、その向こうでエンジンを組み直していた誰かの息遣いが聞こえてくるようだった。
空へ渡されたバトン
サーキットは1939年8月に最後のレースを開催した。戦争が始まると、この地は航空機の生産拠点に変わる。戦後、コースを走れる状態に戻す費用はあまりに大きく、1946年にヴィッカース・アームストロングへ売却された。ウェリントン爆撃機やバイカウント、VC10、そしてコンコルドの胴体を生んだ航空の歴史は、それだけで一冊の本になる。敷地の中で車以上に広い面積を航空機が占めているのも、そのためだ。だが、それはまた別の物語としよう。
ただ、空へ渡されたバトンは、思わぬかたちで地上に戻ってくる。1970年代末、マクラーレンの設計者ジョン・バーナードは、ブルックランズのブリティッシュ・エアロスペース工場に応力技師アーサー・ウェッブを訪ねた。航空機に使われ始めていたカーボンを、F1にどう取り入れるかを学ぶためだった。1981年、バーナードが設計したカーボン・モノコックのMP4/1を駆り、ジョン・ワトソンがシルバーストンで英国GPを制する。1992年には、その技術がマクラーレンF1に受け継がれ、市販車に初めてカーボン・モノコックが使われた。すぐ近くのウォーキングに本拠を置くマクラーレンが、この博物館に展示の場を持つのは偶然ではない。
破られることのない記録
メンバーズ・バンクの足元に立ち、ひび割れたコンクリートを見上げる。1935年8月、オリバー・バートラムの駆るバーナート・ハッサン・スペシャルが、時速142.60マイルで外周路の周回記録を樹立した。だがわずか2カ月後の10月、ジョン・コブは24リッターのネイピア・レイルトンでこの外周路を1分9秒44で駆け抜け、平均時速143.44マイル(約230.8km/h)を記録する。同じ日には、レールウェイ・ストレートで最高時速151.97マイルにも達した。
そしてブルックランズが1939年に閉鎖されたことで、その記録は永遠のものとなった。記録を打ち立てた銀色の巨体は、今もERAシェッドの薄明かりの中にいる。挑む者のいなくなったバンクの上では、1935年の秋の時間が止まったままだ。森の中の傾斜は、100年前にフランスの青いマシンが駆け抜けた轟音を、静かに胸の奥にしまい込んでいる。
ブルックランズ博物館(Brooklands Museum)
Brooklands Drive, Weybridge, Surrey KT13 0SL, United Kingdom
https://www.brooklandsmuseum.com
写真・文:櫻井朋成 Photography and Words: Tomonari SAKURAI