【追悼】ドリー・パートン──なぜ私たちはいつまでも彼女を愛し続けるのか

現地時間8月25日に亡くなったドリー・パートン(Dolly Parton)を追悼。Rolling Stoneの名物ライターことロブ・シェフィールドが、その比類なきキャリアとソングライティングを振り返る。きらびやかな姿の奥にいたのは、誰よりもタフで、誰よりも魂のこもったソングライターだった。アメリカ音楽の最良の部分、アメリカという国の最良の部分を体現したアイコンを偲んで。

極貧の少女から世界的スターへ

ドリー・パートンは、自分がどれほど愛されているかを知っていた。それは偶然ではない。最初から、彼女の計画の一部だった。テネシー州のスモーキー山脈で極貧の少女時代を送っていた頃から、いつか誰もが知るスターになるつもりだった。カントリーの女王は、アメリカ音楽の物語のすべてを、まるで色とりどりのコートのようにその肩にまとっていた。だからこそ彼女は、アメリカの歌手のなかでも最も広く愛される存在になった。スパンコールに身を包んだスーパースターでありながら、同時にすさまじいほど独創的な天才でもあったのだ。「私は自分自身の物語を語り、自分自身の気持ちを言葉にしていた」と、パートンは1975年にRolling Stoneに語っている。「私はかなり大胆な人間なの」

だからこそ、8月25日に80歳で亡くなったという知らせに、世界中が衝撃を受けている。ドリーは自身の健康状態をめぐる報道に対しても、いつものようにユーモアたっぷりに応じていた。亡くなる前日でさえ、そのことをネタに冗談を飛ばしていたほどだ。ドリー・パートンのいない世界など、想像するのは難しい。だが彼女の音楽がある限り、私たちが本当の意味でそんな世界を目にすることはない。

人々は、彼女が自ら名乗った「バックウッズ・バービー」というイメージと、規格外の大きな個性に恋をした。だが、そのきらびやかな姿の奥で、ドリーは誰よりもタフで、誰よりも魂のこもったソングライターだった。ナッシュビルで女性として自分の道を切り開くために闘い、「Jolene」や「Down from Dover」のような曲に、苦悩を抱えた天才ならではの感性と心のすべてを注ぎ込んだ。彼女はアレサ・フランクリンやブライアン・ウィルソン、スティーヴィー・ワンダーのような存在だ。アメリカ音楽がどこまで可能性を広げられるのかを、果てしない想像力で思い描いたヴィジョナリーだった。いま私たちがドリーを悼んでいるのは、彼女が私たちのなかにある最良のものを体現していたからだ。

「私はショーホースみたいに見える働き馬なの」と、まだ30歳にもなっていなかった1975年、パートンはRolling Stoneのチェット・フリッポに語っている。失うものばかりだった駆け出しの若手時代でさえ、彼女は自分の芸術的な声を曲げることを拒んだ。「10代の頃には、自分がソングライターであることをどれほど真剣に受け止めているかに気づいていた。私の曲は自分の子どもみたいなもの。年を取ったら養ってもらうつもりだし、実際に何曲かはそうしてくれている。そう思うのは、曲を書くたびに、昨日までは存在しなかった何かを今日の世界に残したことになるから。それはずっと生き続けるものなの」

貧困について、これほど率直に、これほど細部まで描いたアメリカのソングライターはほかにいない。仕事で父親の手から血が流れていたことや、壁の隙間から風が雪を吹き込ませる音が幼い子どもの耳にはどう聞こえるのか。彼女はそうした細部に焦点を絞った。飢え、失恋、死産、そして何度も繰り返し登場する、男を信じるという致命的な過ちを犯して傷つけられた女性たち。彼女はそうした物語を決して薄めようとはしなかった。これらの曲に描かれる苦難は、いつだって女性の登場人物により苛酷に降りかかる。そしてドリーは、聴き手がその現実から目を背けることを許さなかった。

彼女自身がそうやって育った。そして、自分が歌う過去を決して感傷的に美化しなかった。「In the Good Old Days (When Times Were Bad)」のような、いま聴いても衝撃的な物語がその証しだ。彼女は女性シンガーソングライターとして自分の立場を確立した。当時のナッシュビルでは、実質的に彼女とロレッタ・リンくらいしかいなかった。「家庭に収まりたくなかった」と、1977年のRolling Stone表紙インタビューで彼女は語っている。「自由になりたかった。歌いたい歌があったし、野心があって、それが自分のなかで燃えていた。それが私を山の外へ連れ出してくれるものだとわかっていた。スモーキー山脈の向こうにも世界があることが、私にはわかっていた」

きらびやかなイメージと、その裏に隠れた素顔

インターネット時代になると、ドリーが「Jolene」と「I Will Always Love You」を同じ日に書いたという伝説を、世界中の人々が愛するようになった。ドリー自身はかつて、やんわりと異を唱え、インタビュアーたちに「自分の記憶ではそうではない」と念を押していた。だがやがて肩をすくめるように受け流し、人々を訂正することもやめた。誰よりも抜け目のないビジネスウーマンだった彼女は、その伝説を自分にとってプラスになるものとして受け入れたのだ(2017年頃には、彼女自身もこの筋書きで語るようになっていた。まあ、たしかにいい話ではある)。だが、人々がそこまで熱心にその話を信じたがったという事実は、私たちがドリーに何を求めていたのかをよく物語っている。いつも笑っている、本当にいつも笑っているカントリーの女王が、その怒りや痛みをスパンコールの陰に隠しながら、これほどまでにパーソナルな歌を書いていた。そのイメージには、圧倒的な力があった。

ドリー・パートンほどカムバックを必要としなかったスターはいない。若い世代が繰り返し彼女を「再発見」している、という話ですらない。彼女はずっと、誰の目にも見えるところにいたからだ。世界中の誰もが知り、口ずさむ曲がある一方で、アルバムには無数の埋もれた宝物があり、いまも熱心なファンしか知らない曲がいくらでもある。ドリーは、どれだけ深く掘り下げても、必ずその先にまだ何かがある。彼女のカタログには、『All I Can Do』の「Nickels and Dimes」、『My Blue Ridge Mountain Boy』の「Evening Shade」、『In the Good Old Days (When Times Were Bad)』の「Dont Let It Trouble Your Mind」、『Coat of Many Colors』の「Early Morning Breeze」といった、欠かすことのできない隠れた名曲がいくつもある。

「Jolene」が彼女の最も有名な曲であるのは当然だ。自分の男を奪わないでほしいと、別の女性に懇願する歌である。1973年にカントリー・チャート1位を獲得したヒット曲だが、その時点ですでに、昔からずっとそこに存在していたかのような古いフォーク・スタンダードの趣があった(私が初めてこの曲を聴いたのは、低予算テレビ番組ならではの大惨事を絵に描いたような『The Gong Show』だった。それでも、その物語とあの高音に釘付けになった)。痛いほど感情的な曲でありながら、そこには失恋の痛みを毅然と受け止める感覚があり、それはスモーキー山脈で過ごした彼女の厳しい幼少期にまで遡る。「Jolene」は年月を重ねるごとにますます象徴的な曲となり、ビヨンセからマイリー・サイラス、ザック・ブラウンまで、さまざまなアーティストによるカバーを生んできた。2000年、ホワイト・ストライプスがまだバーを回って演奏していた初期の頃に、ジャック・ホワイトがこの曲を歌うのを聴いたときの衝撃を今でも覚えている。彼はただ、この曲が持つひるむことのない精神に何とか応えようとしていた。

ドリーは、誰にとっても「自分のスター」であるような存在を体現していた。学生時代にまで遡るほど、彼女は生涯ずっと人目を引く存在だった。「私についてはいろんな噂を立てられたし、たくさん嘘もつかれた。ただ、私がこういう見た目だったから」と、彼女は1977年に振り返っている。「昔から胸は大きくて、ウエストは細くて、お尻は大きかった。ただそういうふうに育ったの。それに、ちょっとセクシーな性格でもあったしね」

メインストリームのメディアや深夜トークショーの世界は、しばしばそのイメージの向こう側を見ることができなかった。激しいまでの意志を持つソングライターとしてではなく、愛すべきショービジネス界のエンターテイナーとして彼女を捉えたのだ。あるいは、彼女自身の言葉を使えば「songteller(ソングテラー)」として見ることができなかった。だがドリーは、きらびやかさを愛していないふりなど一度もしなかった。それ自体が彼女の芸術的な創造物だった。「派手な服や宝石、それから、あのけばけばしい見た目。あの部分の自分は、たしかに私が作り出したんだと思う。昔からおとぎ話みたいなイメージに魅了されていた。ショーの半分は照明と輝きときらめきでできている。スターは輝くものだし、たぶん私はただ、スターになりたいだけなの」

彼女はそんな自分の個性を誇りにしていた。だが心の奥にはいつも孤独を抱えていて、それは彼女の歌声にも聴き取ることができる。「つまり、私はすごく社交的で、本当に人懐っこかった。それが人には怖く映ったんだと思う。でも、自分がどこかに属していると感じたことは一度もなかった。人生で一度もね。小さな子どもの頃からそうだった。私はただ人と違っていたから、ナッシュビルに移って音楽業界に入るまで、自分の居場所を本当の意味で見つけられなかった。そこが私の本当の居場所だったから、ようやく馴染めた。私は生まれつき、じっとしていられない性分だったの。本当にそうだった」

誰もが歌いたくなる歌

最初から、ドリーはみんなに自分の曲を歌ってほしいと思っていた。そして実際、彼女が書くそばから、誰もがその曲を歌った。パティ・スミスは『Horses』ツアーで、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやピート・タウンゼントのカバーに挟んで「Jolene」を歌った。ティナ・ターナーは1974年に、火を噴くような「Therell Always Be Music」を披露した。スティーヴィー・ニックスも、バッキンガム・ニックス初期に彼女の曲をカバーしている。マール・ハガードはいつだって、ドリーの曲が本来持つ毒気を存分に引き出して歌った。とりわけ「In the Good Old Days (When Times Were Bad)」の苦々しいカバーは強烈だった。

ジェリー・ガルシアは最初から彼女を崇拝していた。グレイトフル・デッドは、彼女が1969年に出した小ヒット「Tomorrow Is Forever」をよく演奏し、その後何年にもわたって第1セットのローテーションに組み込んでいた。1970年のPlayboy誌のインタビューでは、ガルシアが彼女を「いちばん好きな女性シンガー」と絶賛するのを聞いて、記者が驚いている。だがガルシアは、半信半疑のその記者にドリーのレコードを聴かせると言って譲らなかった。選んだのは1970年の『The Fairest of Them All』。彼女の基準からしても陰鬱なアルバムで、「Daddy Come and Get Me」が収録されている。B面に入る頃には、ガルシアとロバート・ハンター、そして記者の3人がジェリーの居間に座り、全員が泣いていた(最後に並ぶ「Mammie」「Down from Dover」「Robert」の3曲は、石さえ溶かしてしまいそうだ)。

「Coat of Many Colors」は、彼女自身がいちばん好きな曲だと語っていた。母親が端切れを縫い合わせてコートを作ってくれたことを歌った曲だ。彼女はポーター・ワゴナーのツアーバスの中でこの曲を書き、手元にあった唯一の紙、つまりボスであるワゴナーのクリーニング店の受取証に殴り書きした(ワゴナーはその受取証を額に入れて飾った)。ドリーは数多くの、苦労に耐え続ける母親たちを歌に登場させたが、彼女たちは全員が聖人というわけではない。同じアルバムに収録された「Travelin Man」では、主人公はハンサムなセールスマンと駆け落ちするつもりでいる。ところが彼は、主人公ではなくその母親と逃げてしまうのだ。オチはこうだ。〈あの旅回りの男は二股男だった/私の恋を奪って、そのうえ母さんまで奪っていった!〉

彼女は1968年、男性が歌うための曲として「I Lived So Fast and Hard」を書いた。ポーター・ワゴナーが歌い、のちにはメル・ティリスも取り上げている。だが、〈21歳になる前に、そこらの男に負けないくらい人生を生きた〉というフックを聴けば、女性の語り手としてのドリー自身の声を聴き取るのは難しくない。ほんの数カ月前に発表されたハガードの「Mama Tried」への、彼女なりの返答だったとも考えられる。彼女はハガードに「Kentucky Gambler」を提供し、この曲はカントリー・チャート1位を獲得した。「私は男性のために曲を書くのが大好き」と、パートンは著書『Songteller』で語っている。「そうでよかったとも思う。当時のカントリー音楽業界には、曲を書いてあげられる女性シンガーがそれほど多くいなかったから」

「I Will Always Love You」は、ホイットニー・ヒューストンがリンダ・ロンシュタットのレコードを通じてこの曲を知るより前から、盛んにカバーされてきたスタンダードだった(アレックス・チルトンのバージョンも聴いてみてほしい)。だがひとたびホイットニーの手に渡ると、その曲は心も体も、すっかり彼女のものになった。映画『ボディガード』では、彼女がケヴィン・コスナーとカントリーバーにいると、ジュークボックスからこの曲が流れてくる。歌っているのはLAのパンクバンド、Xのジョン・ドウだ。アメリカ音楽のこうしたさまざまな流れをひとつに結びつけられたこと自体が、いかにもドリーらしい完璧な逆説だった。

「自分らしさ」を時代とともに更新

彼女はどの時代においても、常に時代の最前線にいた。80年代には、ボーイ・ジョージとメイクのコツを教え合うのが好きだった。「彼のアイメイク、大好きなの」とRolling Stoneに語っている。「それで彼は、私のアイメイクが大好きなのよ」。長年の友人ケニー・ロジャースとは艶めいたデュエットを歌い、「Islands in the Stream」では、情事の余韻に浸る気の強い熟年カップルよろしく、喉を鳴らすように甘く歌い合った。2人は最後まで一緒に歌い続け、2013年には「You Cant Make Old Friends」で再びデュエットした。実生活で恋人同士だったことは一度もない。だがケニーが2014年にRolling Stoneに語ったように、「僕らはただお互いにずっとイチャついていて、その一瞬一瞬を楽しんでいた」のである。

1980年には「9 to 5」で、彼女のキャリアでも屈指の有名なヒットを生み出した。発売されたその週から、どこへ行っても耳にするような曲だった。だが彼女はその成功を、実に奇妙な(そして過小評価されている)アルバム『9 to 5 and Odd Jobs』へと発展させた。階級闘争と資本主義との闘いをテーマにした、彼女なりのコンセプト・アルバムである。移民労働者を描いた「Deportee」ではウディ・ガスリーを、炭鉱労働者を描いた「Dark as a Dungeon」ではマール・トラヴィスを、工場の組立ラインを描いた「Detroit City」ではメル・ティリスをカバーしている。そして締めくくりには「House of the Rising Sun」をフェミニスト的に読み替え、この歌がそもそもずっと、貧しい少女たちと、男たちが彼女たちにもたらす悪についての歌だったことを思い出させる。ほとんどドリー版『Sandinista!』と呼びたくなる作品だ。それでいて彼女は、そのすべてを笑顔で差し出してみせる。

90年代には素朴なルーツへと立ち返り、その流れは2001年の素晴らしいブルーグラス・アルバム『Little Sparrow』で頂点を迎えた。だがこの時期の最高のヒット曲は、彼女の曲のなかでも最も下世話で、そして最も愉快なものだった。1993年のラインダンス・ヒット「Romeo」である。ビリー・レイ・サイラスがロミオ役を務め、ナッシュビルのスターであるパム・ティリス、メアリー・チェイピン・カーペンター、キャシー・マテア、タニヤ・タッカーも参加している。実生活では、ドリーは当時生まれたばかりだったビリー・レイの娘マイリーのゴッドマザーだった。だが、それでも「Romeo」ではお構いなしだ。女性陣は曲のあいだずっとビリー・レイに色っぽい野次を飛ばし、ドリーは唸るようにこう歌う。〈私はあの坊やの恋人になれるくらい十分な年よ!〉

ビデオの最後で、彼女はビリー・レイと腕を組んで歩き去っていく。「こんなに若くてきれいな女の子たちがたくさんいるのに、私を選んでくれるなんて光栄だわ」と彼女は言う。そしてこう付け加える。「でも考えてみれば、当然よね。このビデオのお金を出してるのは私なんだから」

誰もが迎え入れられる「アメリカ」

彼女はまた、きわめてアメリカ的な、自分自身と、自ら実現させた夢を祀る聖地とも言うべきドリーウッド(Dollywood)を築いた。かつて私は家族旅行で1週間ほどドリーウッドで過ごしたことがあるが、奇妙に聞こえるかどうかはともかく、いまでも人生で訪れたなかで最も幸せな場所のひとつだ。彼女はスモーキー山脈の土地、自分が極貧のなかで育ったその場所を買い取り、自らの人生を記念する遊園地へと変えた。そこは隅から隅までドリー一色だった。目玉の絶叫アトラクションは「Thunder Road」。1950年代のロバート・ミッチャム主演のスリラー映画をモチーフにしたもので、その理由はただひとつ、それが彼女が幼い頃に初めて観た映画だったからだ。

園内に流れる音楽は、いつでもどこでもドリーだった。私が、当時発表されたばかりだった彼女の「In the Pines」を初めて聴いたのもそこだった。ちょうど私はその曲をカート・コバーンを通じて知ったばかりだった。パートン・ファミリー・シンガーズは、彼女が子ども時代を過ごした小屋を再現した建物のそばにあるステージで、代わる代わる歌っていた。博物館には、実物の「色とりどりのコート」が展示されている(あるいは、よくできたレプリカかもしれない)。町全体が、故郷から出て成功をつかんだ少女を称える記念碑のようだった。地元の公園には、子どもたちが遊べるようにドリーが造ったと記されたプレートがある。ラジオ局はWDLY。何を流していたかは想像がつくだろう。ほかのスターがやれば自己顕示的に見えたかもしれないが、パートンの場合、そのすべてが彼女の底なしの温かさと善意に包まれて輝いていた。

ドリーウッドは、少し先のメンフィスにあるグレイスランドとはまさに正反対の場所だった。悲劇と死の気配が漂うエルヴィスの邸宅を見て、自分なら別のバージョンを作ろうと決めたかのようだ。しかもそれは、成功者のバージョンだった。まだ自分が生きているうちに、自分のお金で、自分の人生を祝うために築いた場所。何もないところから出発し、望んだものをすべて手に入れた女性が建てた宮殿であり、彼女が逃れてきたもの、成し遂げたもの、そして最終的に自分がなったその姿のすべてを、訪れる人々にも一緒に祝ってもらうための場所だった。ほかにこんな場所はない。

ドリーウッドの駐車場を出るとき、車は別れの言葉が掲げられたアーチの下を通る。そこにはこう書かれている。〈I Will Always Love You. — Dolly.〉。あのアーチをくぐりながら、その言葉を信じなかった人など一人もいないのではないかと思う。

彼女が世間の目から遠ざかることは決してなかった。ロックの名曲を集めたアルバムを作ったときも(「Stairway to Heaven」はなかなかいい)、グラミー賞でマイリーとデュエットし、客席ではBTSが「Jolene」に合わせて踊っていたときもそうだった。いかにもドリーらしい瞬間として思い出すのが、2006年のアカデミー賞授賞式だ。彼女は、先駆的なトランスジェンダー映画『トランスアメリカ』のために書いた「Travelin Through」で歌曲賞にノミネートされていた。私が決して忘れられないのは、「Its Hard Out Here for a Pimp」でスリー・6・マフィアが彼女を破って受賞したとき、ドリーがどれほど嬉しそうに声援を送り、笑顔を見せていたかということだ。彼女はその後、テネシーのために賞を勝ち取った彼らへ、祝福のメッセージを送った。

ドリー・パートンという人を何よりよく物語っているのは、彼女が最後に公の場へ姿を見せたのがナッシュビル近郊だったにもかかわらず、それがステージでもテレビでもなく、6月、州間高速道路I-65沿いのトラックストップだったことだ。彼女は、自分に敬意を表して改名されることになったTennessean Travel Stopに姿を現した。当然ながら、彼女自身もその事業に持分を持っており、そこでは彼女のブランドのコーヒーも販売されている(驚く人はいないだろうが、その名は「Cup of Ambition」だ)。「これ以上ないくらい誇らしいわ」と、パートンは集まった人々に語った。「私は人生のすべてを、道を旅しながら過ごしてきたの」

ドリーは生涯、その道を旅し続けた。たとえそれが、ときに過酷で孤独な道だったとしても。だが彼女は、その道で目にした苦難について決して嘘をつくことなく、それでも誰もがそこに迎え入れられる場所へと変えてみせた。彼女はその音楽のなかに、これほど多くの人々が自分の居場所だと感じられるアメリカを築いたのだ。

From Rolling Stone US.