
イタリアのベレッタといえば、まず銃の名前として知られている。1985年から2017年まで、M9の名でアメリカ軍の制式拳銃を務めた92シリーズが最も有名だろう。日本でも厚生労働省の麻薬取締部が同社の小型オートを使っている。そのベレッタが、今年で創業500年を迎えた。1526年、マエストロ・バルトロメオ・ベレッタがヴェネツィア共和国の武器庫に185本の銃身を納めた記録が残っている。それが最初の取引だ。
【画像】銃器メーカーで有名なベレッタが、かつては車やバイクも製造していた!(写真23点)
その記念行事に招かれ、ブレシアの北、ガルドーネ・ヴァル・トロンピアにある本社を訪れた。銃器メーカーの話をなぜoctane.jpで書くのか。理由は簡単で、この会社の展示室には車とバイクが置かれているからだ。
門を入ってまず目に入るのは、敷地の中心に建つ一族の邸宅、ヴィッラ・ベレッタである。連続アーチのロッジアと軒下の壁画は中世以来の様式を思わせるが、建てられたのは1920年、ブレシアの建築家エギディオ・ダッベーニの設計による。当主ピエトロ・ベレッタは企業と建築という二つの情熱を持ち、ブレシアのブロレット改修を手がけたダッベーニとの親交から、この館の構想が生まれたと一族には伝わっている。銃を作る以外のことに、この人物はずいぶん強く惹かれていたらしい。その気質を頭の隅に置いておくと、この後の話が腑に落ちる。
銃身から生まれた乗り物
そもそも銃と乗り物は、遠い親戚どころか同じ家に育った兄弟のようなものだ。
1811年、イングランド中部ウェンズベリーの銃身職人ジョン・ラッセルが、錬鉄の管を作り始めた。マードックのガス灯が普及し、蒸気機関が広まり、良質な管材が足りなかった時代である。銃身を鍛え、真っ直ぐな穴を通す技術は、そのまま管を作る技術だった。彼と弟のジェームズが手鍛造で始めたこの仕事が、やがて英国の管材産業になる。1847年の記録に「銃身とガス用などの管の製造者」として名を連ねる工場がいくつもあるのは、そのためだ。
19世紀末、自転車が細く軽い鋼管を必要としたとき、その管を供給したのも彼らの後継者たちだった。象徴的な人物がいる。ジェームズ・ジョージ・アクルズ。1867年から1886年までコルト社に勤め、ガトリング砲を改良したアクルズ機関銃を設計した男だ。彼は1886年にコルトを離れ、1896年、自転車産業へ鋼管を供給するための会社を興した。機関銃の設計者が、自転車のパイプを作る会社を立ち上げたのである。
会社ごと乗り換えた例もある。バーミンガム・スモール・アームズ、すなわちBSA。1861年、機械による銃の量産を目的にバーミンガムの銃工たちが設立した会社が、1880年に自転車製造へ進出した。銃の工場は自転車部品の製造に驚くほどよく適応した、と当時の記録は伝えている。標準部品を大量に、精度よく、安く削り出す。求められた能力が同じだったのだ。1887年には政府の小銃需要が増えて自転車製造を一時中断し、1893年に再開している。あの三丁の小銃を重ねたマークは、飾りではない。ベルギーのFNもまた、1900年から1935年まで自動車を、1965年まで二輪を作り続けた銃器メーカーだった。
だからベレッタが車を作ったことは、この業界においてまるで例外ではない。むしろ王道と言っていい。
1948年、BBC
第二次大戦中、ベレッタの工場は連合軍の進攻とともにドイツ軍に接収された。戦争が終わると、今度は仕事がなくなった。銃を作る設備と職人が、丸ごと手持ち無沙汰になったのである。
ジュゼッペ・ベレッタが目をつけたのは自動車だった。イタリア中が復興のための足を必要としていた。ただし彼は単独では動かなかった。友人のグリエルモ・カステルバルコ伯爵、そしてペーザロのベネリ兄弟の一人ジュゼッペ・ベネリと組む。三人の頭文字を取って、車の名はBBCとなった。
カステルバルコが全体を統括し、ベネリが空冷750ccのV型2気筒を設計し、ベレッタがそのエンジンと角パイプの車体骨格を作った。ボディはトリノのカロッツェリア、フラテッリ・ロッソが架装している。全長約4m、2ドア4座、右ハンドル、そして前輪駆動。等速ジョイント付きのドライブシャフトで前輪を駆り、四輪独立懸架を備えていた。1948年当時の大衆車として、これはかなり意欲的な構成だ。
右側通行の国でありながら右ハンドルなのを、旧い設計の名残と見るのは正しくない。1920年代にムッソリーニが通行を右側へ統一した後も、イタリアでは右ハンドルが長く残った。路肩との距離を掴みやすく、山道で有利とされたからである。ランチアは1950年代を通じてこの配置を守り続け、アルファ・ロメオが初めて左ハンドルを設定したのは1950年の1900だった。山を背負った谷で車を作ろうとした彼らにとって、右ハンドルはむしろ理に適った選択だったのだろう。
狙いはフィアット500、トポリーノより一回り大きく、より近代的な車である。展示室でBBCの隣にトポリーノが置かれているのは、そのためだろう。並べてみると、BBCの方が明らかに戦後の顔をしている。
しかし量産には至らなかった。作られたプロトタイプは3台。フィアットという壁は厚く、そしてベレッタ自身が手を引いた。理由を明快に語る資料はない。500年の歴史の中で、この数年だけが不思議な空白のように浮いている。
ミヴァルという二本目の道
四輪を諦めた彼らは、二輪へ向かった。
1950年、ガルドーネ・ヴァル・トロンピアにミヴァルが設立される。中心にいたのはボローニャの実業家エットレ・ミンガンティ。そこにピエル・ジュゼッペ・ベレッタ、ジュゼッペ・ベネリ、グリエルモ・カステルバルコ・アルバーニが名を連ねた。BBCとほぼ同じ顔ぶれである。工場は旧軍の兵器廠を転用した。社名は当初ミンガンティ・ヴァルトロンピアの略で、後にメタルメッカニカ・イタリアーナ・ヴァルトロンピアと読み替えられる。
最初の125Tはドイツのライバル、DKW RT125をほぼそのまま写したものだった。当時のイタリアでは珍しくない。安く、丈夫で、扱いやすい。それが売れる条件だった。だが彼らはそこに留まらなかった。1953年には競技に進出し、フランコ・ダッラーラが国際6日間トライアルで1954年と1956年に金メダルを獲得する。展示されている175ccの4段変速には「Moto N°22」の札が添えられ、1953年と1954年のミラノ・タラントを制した個体だと記されていた。1950年代後半には4ストロークへ手を伸ばし、1960年には200ccの4ストロークに4段変速を組み合わせた「プリンチペ」を出す。当時としては贅沢なつくりの一台で、1966年の工場渡し価格は25万リラだった。安く丈夫な足として始まった会社が、上を目指そうとしていた時期の産物である。
ミンガンティの死と、四輪小型車の普及による二輪市場の縮小が、この会社の技術的な進化を止めた。ベレッタがミヴァルを吸収し、生産は原付中心となり、やがて工作機械へ転換していく。在庫が尽きるまで営業は続き、1968年に終わった。
僕がこの本社を初めて訪れたのは2008年のことだ。以来、何度となくここへ来ている。今回いちばん驚いたのは、そのミヴァルの展示だった。台数が増え、独立した展示スペースを与えられ、壁面のケージに二段で並べられている。48ccの原付から競技車まで、この会社が辿った道筋がひと目で追えるようになっていた。BBCは現存する台数が限られているから、以前と同じ場所に同じ姿で置かれている。変わったのは二輪の方だ。忘れられかけていたブランドが、500年の記念の年に、あらためて自社の歴史として位置づけ直されたということだろう。
三輪の二台
ミヴァルは二輪だけの会社ではなかった。1953年、ミラノのショーで発表されたミヴァリーノは、メッサーシュミットKR175のライセンス生産である。前2輪、後1輪。航空機の胴体のような紡錘形のボディにキャノピーを被せ、タンデムで2人が座る。操縦はハンドルバー状のヨークで行い、計器盤には最小限の表示しかない。四輪の設計者ではなく、二輪の設計者が作った「車」であることが、座席に近づくとすぐに分かる。
ただしライセンス生産といっても、丸ごと写したわけではなかった。ドイツのKR175がフィヒテル&ザックス製のエンジンを積んだのに対し、ミヴァリーノは自社製の空冷2ストローク単気筒を後部に収めている。排気量172cc前後、5500rpmで9.5馬力、最高速は75から80km/h。電気始動と後退ギアを備え、混合燃料の消費は100kmあたり約3リットルだった。二輪から一歩上がろうとする中間層に、手の届く価格で屋根と四つ目の席を与える。狙いはBBCと変わらない。
そしてこの車も、同じ壁に阻まれた。1955年に登場したフィアット600が、ミヴァリーノに止めを刺したのである。BBCがトポリーノに行く手を塞がれ、ミヴァリーノが600に消された。ヴァル・トロンピアの二度の挑戦は、二度ともトリノに退けられたことになる。
もう一台、廊下の隅に置かれた三輪トラックの方が、この記事の主題をより端的に語っているかもしれない。ミヴァルのモトカッロだ。木製の荷台には三本線のミヴァルのマークが入り、その隣に白い文字でこう書かれている。Beretta Armi。銃器工場の構内を、傘下の二輪メーカーが作った運搬車が走っていた。銃と乗り物の関係が、これほど素朴な形で残っている例も少ない。
そして一台のアメリカ車
BBCとトポリーノの後ろ、光の届かない場所に、見慣れない一台が置かれている。シボレー・ベレッタだ。
1987年、GMがこの名前の2ドアクーペを発売した。前年の時点でイタリアのベレッタ社は警告を送っている。ベレッタの名は1954年から米国で商標登録されている、と。GMは無視した。1988年7月、ニューヨークの連邦地裁に2億5000万ドルの損害賠償請求が提出される。
決着は意外な形をとった。1989年5月、GMは賠償金ではなくベレッタのがん研究財団へ50万ドルを寄付する。そしてGM会長ロジャー・スミスとベレッタの間で、一台のシボレー・ベレッタGTUとライフル、ショットガンが交換された。この車がここにあるのは、そういう理由だ。
500年のうち、四輪と二輪に手を出していたのは、せいぜい20年ほどにすぎない。3台で終わった車があり、中国資本の下で名前だけが生き続ける兄弟会社があり、工作機械に姿を変えて消えたブランドがある。そしてこの薄暗い一角には、名前を巡って争った相手から贈られたアメリカのクーペが、静かに置かれたままになっている。銃身を穿つ技術から生まれた鉄の管が、自転車になり、バイクになり、車になった時代の名残を、ヴァル・トロンピアの谷は今も抱えている。
写真・文:櫻井朋成 Photography and Words: Tomonari SAKURAI