連載:アナログ時代のクルマたち|Vol. 81 フェラーリ312PB

1960年代後半から、フェラーリのレース活動は停滞期を迎えた。長くF1の勝利から遠ざかり、スポーツカーレースも、ル・マンでは1965年を最後に勝てなくなっていた。その代わりに台頭したのが、フォードであり、そしてポルシェであった。都合の悪いことに、1967年末、FIAは当時のスポーツカーレースのレギュレーション見直しを発表。これにより、ル・マンでは負けたが、他のサーキットでは優勢を保ったフェラーリ330P4が、出場機会を失い、フェラーリはスポーツカーレースからの撤退を決断する。つまり全勢力をF1に注ぎ込むという決断である。

【画像】「カウルを被せたF1マシン」といっても過言ではなかったフェラーリ312PB(写真8点)

F1のレギュレーションは、1966年から3リッターに排気量が拡大された。66年こそ新たな312と名付けられたエンジンによって2勝することができたが、67年になると、エースドライバーだったロレンツォ・バンディーニが非業の死を遂げるなど低迷期に入り、ついにはシーズンで1勝も挙げることができなかったのである。

68年になると低迷は顕著となり、新加入のジャッキー・イクスが1勝を挙げたものの、財政的な問題も絡み、ついには1969年に、フィアットがフェラーリ株式の50%を取得して実質的な支配をすることになる。ただ、レース部門については引き続きフェラーリが実権を握っていた。68年シーズンのスポーツカーレースは、前述したとおり、チャンピオンシップが3リッターのプロトタイプカー、もしくは5リッターのスポーツカーの間で争われ、ポルシェは排気量2.2リッターの907。フォードは老朽化しているにもかかわらず、ジョン・ワイヤーの手で再生されたGT40でチャンピオン争いをした結果、フォード5勝、ポルシェ4勝、有効ポイントで勝ったフォードに、メーカーチャンピオンの座が渡った。

この68年シーズンを欠場したフェラーリは、F1用の3リッターエンジンをスポーツカーに流用する決断をし、69年シーズン向けに、F1エンジンを搭載した312Pを完成させる。この車は非常に速く、ポテンシャルはあったものの、常に些細なトラブルに災いされ、大きな成果を上げることができなかった。一方のポルシェは、実質的にはプロトタイプといっても過言ではない917を25台作り上げ(本当はFIAの査察時には完成していなかった)、これをスポーツカー・カテゴリーに投入してきた。

こうなると3リッターの312Pは手も足も出ず、フェラーリはポルシェ同様、5リッタースポーツの512を開発してポルシェに対抗するものの、出遅れは顕著であった。僅か半年ほどでフェラーリは512でのチャンピオン争いをあきらめ、新たなプロトタイプマシンの開発を進めることになる。というのも、FIAが再びレギュレーションに手を入れ、1972年シーズンからはチャンピオンシップから5リッタースポーツカーが除外され、3リッタープロトタイプカーのみにするという変更を加えたからだ。結果としてポルシェ917やフェラーリ512は、出場機会を失ったのである。

ちょうどその頃、F1の方では開発責任者だったマウロ・フォルギエリが、新たなエンジン、ティーポ001と呼ばれたフラット12のエンジンを完成させ、1970年シーズンからこれを使い、成果を上げ始めていた。そして、このエンジンを流用して完成されたスポーツプロトタイプが312PBであった。エンジンのみならず、シャシーの基本的構造もF1の312Bに倣ったもので、いわゆるセミモノコック構造とされ、エンジンをシャシー構造材の一部に使ったロータスなどとは設計思想が異なる。エンジンとリアサスペンションはスチール製のフレームに取り付けられ、そのフレームがアルミニウム製タブにボルトで固定される構造となっていた。312Bと同じ構造であり、312PBはまさにカウルを被せたF1マシンといっても過言ではなかったのである。

1971年の初戦から312PBは実戦投入されたものの、初戦は悲惨な結末に。ドライバーだったイグナツィオ・ギュンティがクラッシュ、帰らぬ人になった。その後も5リッタースポーツカーに交じっての戦いは、正式な3リッタープロトタイプによるチャンピオン争いが始まる72年までの準備期間として十分なものだったようで、1972年シーズンは出場しなかったル・マンを除き、全勝という快挙を達成した。

ル・マンに参戦しなかった理由は、車両自体が1000km程度のレースに対応する設計とされていたからで、完走できないことが予想されたル・マンは出場を回避したということだ。しかも選手権ポイントは、全10戦のうち8戦のみであったため、ル・マンに参加しなくても順位に影響することがないとの判断からだった。その後フェラーリはスポーツカーレースから手を引き、1994年に333SPが登場するまで、長い欠場期間が続いた。

ロッソビアンコ博物館に展示されていた312PBは、シャシーナンバー0890。この車は1972年の初戦から実戦投入され、初戦のディトナではクレイ・レガツォーニ/ブライアン・レッドマンのコンビが4位に導いたマシンである。その後第3戦のスパ1000km、そしてチャンピオンシップのかからないイモラ500kmでも優勝を遂げた。

現在はイギリスのコレクターが所有してグッドウッドなどにも姿を見せているようである。

文:中村孝仁 写真:T. Etoh