
ル・マン・クラシックが変わった。
【画像】ル・マン・クラシック初開催となる「レジェンド」。1970年代半ばから2010年代までのレーシングカーが集う(写真18点)
2002年、Peter AutoとACO(フランス西部自動車クラブ)が始めたこの祭典は、ル・マン24時間の舞台であるサルト・サーキット、あの13kmを超える本物のグランサーキットに、24時間の歴史を彩った車たちを呼び戻す催しとして育ってきた。隔年開催ながら回を重ねるごとに規模を増し、2025年には観客約23万8000人、出走800台。いまや世界最大級のヒストリックイベントである。
そして2026年、大きな転機を迎えた。年次開催への移行である。奇数年は戦前から1970年代初頭までを扱う「ヘリテージ」、偶数年は今回初開催となる「レジェンド」。対象は1970年代半ばから2010年代まで、つまりターボ、グループC、GT1、LMP、GTEという、我々の世代が「現代」として見てきた時代が、ついに歴史の側へ迎え入れられたのだ。競技プラトーは6から10までの5つ。935がクラシックとして走り、プジョー908のディーゼルが「ヒストリックカー」としてピットに収まる。この感覚の更新こそが、レジェンドという新しい祭典の本質だと思う。
キャッチコピーは「Nouvelle époque, nouvelle intensité(新しい時代、新しい熱狂)」。ネオンを模した新しいビジュアルが会場のあちこちで光る。パドックを歩き始めてすぐ、しかし私の目は別のものに吸い寄せられていった。日本である。5つのグリッドすべてに、日本の糸が通っていたのだ。今回はその糸をたどりながら、この初開催の祭典を歩いてみたい。
1. ロータリーが目を覚ます
パドックの喧騒が、一瞬だけ静まる音というものがある。
R26Bに火が入った瞬間、パドックの喧騒が一段静まり、続いてどよめきに変わった。4ローターだけが発する、金属的で甲高い咆哮。レシプロのどの排気音とも違うその響きは、35年前と寸分違わずコンクリートの壁に反射し、居合わせた誰もがスマートフォンとカメラを構えた。レナウンチャージカラーの車体には歴戦の艶と細かな傷がそのまま残る。磨き上げられた展示品ではなく、走ることをやめない機械が目を覚ます音である。
コクピットに収まるのは「ミスター・ル・マン」こと寺田陽次郎。1974年の初出走以来、日本人最多となる通算29回のル・マン24時間出走を数え、マツダのロータリーとともに走り続けてきた人物である。1991年の優勝の年も787を駆り、チームの一員としてあの瞬間をピットで共有した。TERADAの名が入るヘルメットにグローブの赤。御年79歳、その所作に衰えはない。
サルトに帰ってきたマツダ787B、ゼッケン55。1991年のル・マン24時間をフォルカー・ヴァイドラー、ジョニー・ハーバート、ベルトラン・ガショーのトリオで制した、日本車初の総合優勝マシンである。搭載されるR26B型4ローターは自然吸気で700馬力を発生し、甲高い咆哮とともに5,000km超を走り切った。ロータリーによる勝利はル・マン史上この一度きり。デモ走行とはいえ、あの音が再びこのコースに響く価値は、順位表のどんな数字にも代えがたい。
1991年の優勝から35年。マツダ787Bとミスター・ル・マンの組み合わせは、この土地では特別な意味を持ち続けている。デモ走行の枠とはいえ、4ローターの咆哮がホームストレートに反響した数分間、フェンス際のスマートフォンは一斉に空へ向いた。
2. 日産、最速だった日々
787Bが「勝った日本」の記憶なら、日産は「最速だった日本」の記憶である。
パドックに展示された日産R390 GT1。1997年のル・マン24時間にゼッケン22で出走した仕様で、当時のドライバーはリカルド・パトレーゼ、エリック・ヴァン・デ・ポール、鈴木亜久里の3名だった。TWRとニスモの共同開発によるカーボンモノコックのGT1マシンで、ボディの造形は後にジャガーのデザインディレクターとなるイアン・カラムが手がけた。搭載されるVRH35Lはグループ C時代のR89C由来の3.5リッターツインターボV8である。プレ予選ではマーティン・ブランドルが全体最速タイムを記録したが、車検で指摘されたラゲッジスペースの容量不足を解消するため排気系を急遽レイアウト変更した影響でギアボックスの冷却に問題を抱え、決勝ではこの22号車を含む2台がトランスミッショントラブルで戦列を去った。翌1998年にはロングテール化で弱点を克服し、出走4台全車完走、星野一義、鈴木亜久里、影山正彦組の32号車が総合3位表彰台を獲得している。GT1規定が消滅する直前、日産がル・マン総合優勝に最も近づいた時代の証人だ。
そしてグループC時代。今回のグリッド7には、1990年の総力戦を担ったR90CKが2台もエントリーしていた。
両側のドアを跳ね上げてパドックに佇む日産R90CK、ゼッケン24。青と白のYHP(横河ヒューレット・パッカード)カラーに出光とケンウッドのロゴが並ぶ姿は、1990年のル・マン24時間に日産モータースポーツ・ヨーロッパが持ち込んだ24号車そのものである。ドア上にはマーク・ブランデル、ジュリアン・ベイリー、ジャンフランコ・ブランカテリの3名の名。予選でブランデルが樹立した3分27秒022のポールタイムは、この年の日産の速さを象徴する記録として今も語られる。日本のスポンサーロゴを満載した英国製造のシャシーという成り立ち自体が、三大陸体制で臨んだ1990年の日産の総力戦を物語る。テントの下、観客が数歩の距離まで近づけるのもこの祭典ならではだ。
ドアの開いた日産R90CKのコクピット。シャシー製作は英ローラで、右ハンドルに右手側のシフトレバーという英国流のレイアウトを持つ。搭載されるVRH35Zは3.5リッターツインターボV8。1990年のル・マン24時間予選では、ブースト全開のマーク・ブランデルが3分27秒022という驚異的なタイムでポールポジションを奪い、このコースにおける日産の速さを歴史に刻んだ。カーボンパネルのトグルスイッチ群は当時のままの雰囲気を残す一方、ステアリングにはRADIOやPITの無線ボタンが備わり、スポークにはセッティングの数値を手書きしたメモが貼られている。計器脇の「FCY 80」はフルコースイエロー時の制限速度を示す現行規定のステッカー。36年前の戦闘機械を現役で走らせるための、時代の異なる道具立てがひとつのコクピットに同居する。
リアカウルを外した日産R90CKの心臓部、VRH35Z型エンジン。3.5リッターの90度V8にツインターボを組み合わせた4カム32バルブユニットで、決勝仕様でも800馬力級、予選ブーストでは1000馬力をゆうに超えたとされる。「NISSAN V8」のロゴが鋳込まれたアルミのインテークプレナムの下に赤いカップリングで結ばれたインジェクション系が整然と並び、左手には大型のインタークーラーが縦に収まる。シャシー設計はエリック・ブロードレイ率いる英ローラが担当し、プッシュロッド式サスペンションの作動系もこの角度からよく観察できる。足元に積まれたエイヴォンのスリックは現代のヒストリックレース用で、当時と今が入り混じるパドックならではの眺めだ。このVRH系こそ、のちにR390 GT1へ受け継がれるユニットの原点である。
ユニシア・ジェックスのロゴをまとった日産R90CK、ゼッケン1がコースへ向かう。1990年のル・マン24時間は日産にとって史上最大規模の布陣となった年で、欧州のニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ、日本のニスモ、米国のNPTIと三大陸の部隊が計7台を持ち込み、総力戦でポールポジションを獲得した。リアウイングの翼端板に残るNPTIのステッカーが、その米国部隊の記憶を伝えている。ドライバーはオリヴィエ・ガラン。グリッド8ではパノスLMP-1ロードスターSも走らせる二刀流のエントラントである。
3. 日本人オーナーの962C
グループCの主役といえばポルシェ962Cだが、その1台のコクピット脇に日本人の名前を見つけた。
ピットロードを静かに抜けていくポルシェ962C、ゼッケン17。白地に赤のF.A.T.インターナショナルとレプソルのロゴは、スイスの名門プライベーター、ブルン・モータースポーツが1990年代初頭にまとった塗り分けである。962Cはグループ C時代のカスタマーレーシングを支えた決定版で、3リッター水平対向6気筒ツインターボを積み、ワークスからプライベーターまで文字通り世界中のグリッドを埋めた。コクピット脇にはヴァルター・ブルン、ヘスス・パレハと並んで現在のオーナー、永井宏明の名前が入る。日本人コレクターの手で維持されるグループCカーが、当時のカラーのままサルトへ里帰りした1台だ。エントリー上は1991年型である。
リアカウルの下に覗くポルシェ962Cの心臓部、タイプ935系の水平対向6気筒ツインターボ。空冷のシリンダーブロックに水冷4バルブヘッドを組み合わせた過渡期ならではの構成で、ボッシュ・モトロニックの制御により決勝仕様でも600馬力を超える出力と、グループ Cの燃費規定を両立させた。磨き上げられたアルミのプレナムの周囲を、耐熱布を巻いた配管と編組ホース、色分けされたアルマイトのフィッティングが縫うように走る。手前のキャッチタンクや樹脂のリザーバーに至るまで、機能の集積がそのまま造形になった眺めである。956から962Cへ、10年にわたり耐久レースの第一線を支えたこのユニットの整然とした佇まいには、カスタマーレーシングの道具としての完成度がにじむ。
4. チーム郷、そして日の丸のアウディ
「1st GEAR」「FIRE UP」のボードを掲げるメカニックに送り出されるアウディR8、ゼッケン5。白い車体に日の丸を散らしたこの姿は、2002年のル・マン24時間に郷和道率いるアウディスポーツジャパン・チーム郷が持ち込んだ5号車の再現である。当時のドライバーはヤニック・ダルマス、荒聖治、加藤寛規の3名で、結果は総合7位。この参戦から始まった3カ年計画は、2004年に荒聖治、ディンド・カペッロ、トム・クリステンセン組の総合優勝という形で結実し、チーム郷はマツダ以来2番目にル・マンを制した日本のチームとなった。現在のエントラントはドイツのクリスチャン・アルブレヒト。日本のプライベーターがアウディの黄金時代に刻んだ足跡が、20年余りを経てドイツ人オーナーの手で走り続けている。
5. Zとマクラーレン、意外な日本
赤と白のチーム・ダットサン・カストロールカラーで駆けるダットサン240Z、ゼッケン72。エントリーはリュックとオリヴィエのビオトー組で、1975年のグループIV仕様である。S30型フェアレディZは北米市場で日本車の評価を一変させたスポーツカーだが、その戦歴も国際的で、サファリラリーでは1971年と1973年に総合優勝を果たした。L型直列6気筒はチューニングの素材としても懐が深く、欧州各国のプライベーターがグループIV規定で戦わせている。ドアに貼られたスポンサーはル・マン市内のディーラー、ルルー。地元の看板を背負った日本車が半世紀を経てサルトを走る姿に、この土地とZの縁の深さを見る。今回のグリッド6では935やBMW M1といった大排気量勢に混じる存在だが、ロングノーズの美しいプロポーションは遠目にもよく目立つ。
バタフライドアを跳ね上げてピット作業を受けるマクラーレンF1 GTR、ゼッケン60。赤と黒のラークカラーにBMWジャパンのバイザーという出で立ちは、1996年の全日本GT選手権を戦ったチーム・ラーク・マクラーレンの再現である。この年、デビッド・ブラバムとジョン・ニールセンの60号車はGT500クラスを制圧し、ニールセンがシリーズチャンピオンに輝いた。僚車61号車のステアリングを握っていたのは、F1昇格前夜の若きラルフ・シューマッハと服部尚貴だ。ル・マンで生まれた6.1リッターBMW V12のGTマシンが日本のシリーズで暴れ、いままた当時の姿でサルトに立つ。ル・マンと日本のモータースポーツが最も熱く交差した90年代半ばの記憶を、一台で呼び戻す存在である。
6. 日本の心臓は今も現役
最後に、最も新しいグリッド10で見つけた日本の糸を。シャシーは欧州製でも、その心臓は日産だった。
フロントフェンダーの奥、ミシュランのサイドウォールに白マーカーで「LeMans FL Set 1」の手書き文字。左フロント用、第1セットという意味で、位置と組み合わせを管理するタイヤ屋の仕事は最新のWECもヒストリックレースも変わらない。車両はグリッド10のゼッケン41、ギブソン015S。英ザイテックを前身とするギブソン・テクノロジーのLMP2で、同社は現在もLMP2用V8エンジンの独占供給元としてル・マンを支え続けている。エントラントのデビッド・チェンはジャッキー・チェンDCレーシングの共同創設者として2017年のル・マンで総合優勝にあと一歩まで迫った人物。書き殴られた1行のメモにも、24時間レースの実務の記憶が宿っている。
ギブソン015Sのエンジンベイ。金色に輝くのは断熱フォイルを貼り込んだカーボンのエアボックスで、輻射熱から吸気を守るための航空機由来の手法である。その下に収まるのは日産のVK45系4.5リッターV8。GT-Rなど市販車に源流を持つ自然吸気ユニットは、信頼性と扱いやすさでこの世代のLMP2の定番だった。手前には赤いスプリングのダンパーユニットが並び、プッシュロッドとロッカーを介して路面からの入力を受け止める。配管の一本、フィッティングの一個に至るまで機能で選ばれた部品が過不足なく詰まった空間は、現代プロトタイプの設計思想の縮図である。ここにも日産の心臓が息づいているあたり、今回のグリッドの日本づいた巡り合わせを感じずにはいられない。
リジェJS P2、ゼッケン35のコクピット。コスワース製のディスプレイとスイッチパネルが正面を占め、色分けされたボタン、消火装置のハンドル、ドリンク用のゴムバルブと、耐久レースを戦うための装備が半径数十センチに凝縮される。アナログメーターが並んだグループC世代の仕事場と見比べれば、四半世紀の進化は一目瞭然だ。車体のそこかしこにNISSANとNISMOのロゴが躍るのは、背中側に市販車由来の日産VK45系4.5リッターV8を積むためで、この信頼性に定評あるユニットは当時のLMP2で事実上の標準の座を占めた。そして車名のJSの2文字は、1968年に散ったジョー・シュレッセールへの追悼のまま。2014年、ジャック・ニコレの手でプロトタイプ製造者として復活したリジェの第1作がこのJS P2である。グリッド6には1975年のJS2もエントリーしており、40年を隔てた2つのリジェが同じ週末のサルトで名前をつないでいる。
ピットレーンに姿を現したリジェJS P2、ゼッケン35。二股に割れたノーズと高く持ち上げられたフェンダーが生む彫りの深い顔つきは、この世代のLMP2クーペを特徴づける空力造形である。黒とオレンジの車体にはカリフォルニアのワイナリー、エーレット・ファミリーのロゴ。ドイツ人ジェントルマンドライバーのピエール・エーレットは、フェラーリでのル・マン出走歴も持つ耐久レースの常連だ。運用はOAKレーシング系の体制で、フロントには「La Sarthe」の文字も入る。ミッドに積むのは日産のV8。ワークスの去った後もこうしてプライベーターの手で最新世代に近いプロトタイプが走り続けることこそ、ル・マン・クラシック・レジェンドが5つ目のグリッドまで用意した意味である。
結び
70年代のZから2010年代のLMP2まで。5つのグリッドを順に見ていくと、そのすべてに日本の車、日本のエンジン、日本人の名前があった。ル・マンの50年は、日本のモータースポーツの50年でもある。初開催のレジェンドは、その事実を改めて確かめさせてくれた。
後編では、日本の糸をいったん手放して、パドックで出会った忘れがたい機械と人々を紹介したい。
・・・【中編】へ続く。
写真・文:櫻井朋成 Photography and Words: Tomonari SAKURAI