マッシヴ・アタックはなぜ偉大なのか? スローモーションの美学、真摯な政治性、耐え難い世界への告発

現在は3D(ロバート・デル・ナジャ)とダディ・G(グラント・マーシャル)の2人体制で活動するマッシヴ・アタック(Massive Attack)が、今年のフジロックで2010年に続いて2度目のヘッドライナーを務める。トリップホップの先駆者として一時代を築き、強烈な政治的メッセージを放ち続ける彼らの革新性を、ele-king編集長の野田努が解説する。

夜の闇のユートピア

村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』において、架空の作家の墓碑銘──「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか。」がニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』に登場する詩の意訳であることは、いまとなってはファンのあいだではよく知られている。同作をはじめ村上作品には、引用(オマージュ)と文学的仕掛け(パスティーシュ)があるわけだが、まったく同じことがマッシヴ・アタックのデビュー・アルバム『Blue Lines』でも成されている。いや、村上作品以上に、アルバムのほとんどが引用(オマージュ)と、そしてサンプリング(パスティーシュ)で成り立っている。それをもって、『Blue Lines』は”夜の闇の”一大パノラマを演出した。

  俺の人生に太陽の光はない

         ──「Blue Lines」

『Blue Lines』(1991)

それは1992年の時点で、英国音楽のそのデケイドにおける決定的なアルバムになったばかりか、数多くの模倣品を生むことになるひとつの”型”の誕生でもあった。そのことは後で触れるとして、まずは”夜”について書きたい。マッシヴ・アタックが創出した”夜の闇の”ユートピアとでも言えそうな世界を。それがどれほど衝撃的で、異質で、大胆であったのかをわかりやすく共有してもらうためには、時間軸に沿って話すのがいいだろう。

音楽ファンなら、何回も聴いていくうちに好きになる曲もあれば、初めてそれを聴いたときに、その斬新さにおいて、「これはすごい」と一発で感動を覚える曲がある。マッシヴ・アタックのほとんどデビュー・シングルといえる「Daydreaming」がそうだった。

ときは1991年、ザ・ストーン・ローゼズが太陽を謳い、プライマル・スクリームもまた眩い愛を歌い、ザ・KLFも愛の祝砲を上げ、英国音楽にはまだ十分にセカンド・サマー・オブ・ラヴの余韻が漂っていた頃、マッシヴ・アタックの「Daydreaming」は、夜であり、寒々しさであり、カオスの白昼夢だった。このスローモーションの世界──すなわちテンポの遅さもまた、1991年というハイな季節においては反時代的だった。ことクラブ・ミュージックの世界では大いなる嫌悪を招いてもおかしくなかったが、実際はその真逆だった。日本では、ほとんどのDJやクラブ系のリスナーが真っ先にこの曲に反応したのである。 

  天気は変わりつつある

  嵐が吹き荒れるだろう

        ──「Daydreaming」

使い古されたマッシヴ・アタック評──いわく「ソウル・II・ソウルとジョイ・ディヴィジョンの出会い」。ハウス、ヒップホップ、レゲエ、R&BをUK独自の洗練されたフィルターを通して融合させ、”UKブラック・ミュージック”をアップデートし、英国の移民文化の側からセカンド・サマー・オブ・ラヴ時代のポジティヴなヴァイブを表現した前者、そして後者は、ポスト・パンク時代のもっとも強力なダークサイド、すなわち”闇”。この両者の出会い。起こりえないことがそのシングル盤では起きていた。明るいと思っていたのに暗い、夏だと思っていたが冬だったのである。

しかもそのスローモーションの曲の土台は、ウォーリー・バダロウというアーティストの 「Mambo」(1984年)なるインストゥルメンタル曲のたんなるループ(パスティーシュ)であることを知った当時のリスナー(DJとぼくのようなリスナー)は、同曲が収録されている『Echoes』というアルバムを血眼になって探したものである。ちなみに当時は、ヤフオクもebayもない。中古レコード店を片っ端からまわるしかない。そしてその元ネタを知ったときの驚き。その曲をただ再生してラップを被せているだけのことに驚いたのではない。いまではこうやって曲を作るのかと腑に落ちたこと自体に、ほぉーっと驚いたのである。

もっとも、当時のヒップホップのBPMの標準からするとずいぶんスローなそのトラックとラップに関しては、ニューヨークの天才的なヴィジュアル・アーティストでありラッパーのラメルジーとK-Robによる、極めて奇妙なダブの実験を施したカルト的名曲「Beat Bop」 (1983年)からの影響であることも付け加えておきたい。そして、マッシヴ・アタックの ”引用”は、サウンドのみならずそのリリックにもあった。「Daydreaming」のなかには、『屋根の上のバイオリン弾き』、ドアーズの「Light My Fire」、ザ・ビートルズの「The End」と「Here Comes the Sun」の歌詞のフレーズがカット(引用)されている。

ところで、『風の歌を聴け』の舞台は異国情緒ある港町で、中国人のバーテンダーのいるジェイズ・バーだったが、マッシヴ・アタックを生んだブリストルも港町で、だが、そこはかつて奴隷貿易の拠点であり、第二次大戦後には多くのジャマイカ系移民が労働力としてやって来て、住み着いた町でもあった。マッシヴ・アタックが表象するのは、英国におけるこうした移民文化、ないしは多民族(マルチ・レイシャル)な文化背景を持つ英国である。その点において、前掲したインディ・ロック・バンドと文化的に異なっている。オリジナル・メンバーの3人は、ふたりのジャマイカ系とひとりのイタリア系なのだ。

英国産のポップ・ミュージックがこうした移民文化を積極的に汲み取ってきた先駆的な例は、古くはザ・スペシャルズやザ・ビート、そして80年代にはシャーデーがいて、その後半にはネナ・チェリーがいるにはいたが、2トーン勢を除けば、彼女たちはローカルなシーンから登場したわけではない。ソウル・II・ソウルはロンドンにおけるカリブ系移民文化とサウンドシステム文化を背景に生まれたもので、そのミドル・テンポのビートをさらに落とした煙でむせかえるようなマッシヴ・アタックのあのサウンドも、ブリストルのアンダーグラウンドなクラブ・シーン(DJカルチャー)から生まれたものである。英国の有名な音楽ライター、ショーン・オヘイガンは『FACE』1994年8月号の記事において、「ポスト・ラップ期のダンス・ミュージックが持つ無数の可能性を、あれほど見事に定義した英国のレコードは他に存在しない」と言い切っている。

マッシヴ・アタックの前身はワイルド・バンチという地元のDJチームで、彼らの集合写真を見て唸ったのは、4人のメンバーが抱えていたのがギターでもドラムのスティックでもなく、二台のターンテーブルだったことだ。そのうちのひとり、ネリー・フーパーは80年代なかばに故郷を離れてロンドンへと向かい、ジャマイカ系移民たちの集団、ソウル・II・ソウルのメンバーとなるのである。彼らの曲、 「Keep on Movin'」や 「Back to Life」が80年代末に世界的な(日本でも)ヒットになったことは言うまでもないが、そこでのスタジオ経験をかつての仲間たちに還元したからこその傑作が生まれた。それは、「Daydreaming」に続くシングル第二弾、「Unfinished Sympathy」において至高と言える成果を生んでいる。重低音とエレガントなブレイクビートのうえをシャラ・ネルソンの力強いボーカルが駆け抜ける。

  夜のない昼なんて、どうして迎えられるというの

              ──「Unfinished Sympathy」

曲の後半では生のオーケストラを使っているが、レーベルから与えられた予算をオーバーしたため、所有していた四輪駆動車を売ってその費用に充てた。マッシヴ・アタックはこの曲においても喪失感や空虚感、報われなさといった負の状態を主題にしているが、ビートの疾走感と温かみのあるストリングスがこの曲の新鮮さ、透き通った自由を代弁している。

また、前掲の曲「Daydreaming」のリリックにおいては、じつはときの首相、マーガレット・サッチャー(マギー)の名前が3回も出てくるというのに、誰もそれをポリティカルでプロテストな曲であると思わなかった。むしろサウンドの浮遊感から感じる逃避主義に身を任せていたものだったが、サッチャーの名を連呼し、バルセロナを目前に控えながら「オリンピックが来るのなんて待っちゃいない」とラップすることは考えてみれば、きわめて政治的なのである。だが、彼らの描く荒涼たる風景には、多くの点でいくつかの英国音楽と共通する官能的で甘い陶酔がある。それはエーテル(エセリアル)系と呼ばれる感覚で、夜の大気のなかに溶けていくような(重低音を響かせながらも)ヘリウムのように軽い質感である。この英国製の逃避主義的音響は、スコットランドの石油産業の拠点であるフォークランド近郊の労働者階級の港町で誕生したコクトー・ツインズにはじまっている。そのメンバー、エリザベス・フレイザーはやがてマッシヴ・アタックの大名曲「Teardrop」(1998年)でフィーチャーされることになる。

ダークサイドを極めた先で

マッシヴ・アタックは、90年代に3枚のアルバムをリリースしているが、その3枚すべてが傑作であり、必聴盤だ。2ndアルバム『Protection』は、エヴリシング・バット・ザ・ガールのトレイシー・ソーンによる、唯一無二の歌声がフィーチャーされた表題曲がまさにそうだが、彼らのカタログのなかでもっともポップな、つまり、自宅のベッドルームでも楽しめる作品である。1stにおける夥しい”引用”の美学は後退したが、マッシヴ・アタックのスローモーションの美学──J-POPでもアニソンでもヒット曲は往々にしてスピード感を有している──をポップ・ソングとしても完成させたという意味において「Protection」は重要な曲で、そしてこの曲の実際の商業的な成功は、たくさんのフォロワーを生む契機にもなった。フランスやドイツにもその影響は飛び火し、フランスではエールがその代表例だろう。イギリスではZero 7やモーチーバ、レモン・ジェリーにグルーヴ・アルマダといった連中が、マッシヴ・アタックを水で薄めて小洒落たレストランのBGMにしている。

『Protection』(1994)

しかしながら1994年には、現代のミューザック/イージーリスニングへと転じたブリストル生まれの俗称”トリップホップ”(これは本人たちが望んだジャンル名ではない)において、『Blue Lines』と並ぶ画期的なアルバムが同地ブリストルから生まれる。ポーティスヘッドの夢遊病者のような『Dummy』である。さらに1995年には、『Blue Lines』を越える悪夢と陶酔感を有したアルバムが衝撃を与える。トリッキーの『Maxinquaye』だ。マッシヴ・アタックの『Mezzanine』が、彼らのスローモーションの美学とエーテル的な志向を強めながら圧倒的な光沢をもった作品になりえた背景には、こうした同郷のアーティストたちによるモンスター級の名作があったことも大きく関係していると思う。下世話なことを言えば、『Protection』の成功のあと、レコード会社からはさらにポップな作風を期待されたかと思うが、マッシヴ・アタックはまったく正反対の、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのサンプリングをもって、いままで以上にダークサイドを極める道を選んだのである。

『Mezzanine』(1998)

とはいえ、栄光の道はここまでだった。『Mezzanine』のリリース後にメンバーのマッシュルームが脱退する。5年を経てようやくリリースされた4枚目のアルバムにはグラント・”ダディ・G”・マーシャルが不参加、かくして『100th Window』はほとんどロバート・”3D”・デル・ナジャによるソロ作品としての趣を強めてしまったが、問題は、その音楽が彼らのルーツであるサウンドシステム文化からあまりにも離れてしまったことだった。R&Bやヒップホップも手放し、レゲエやダブでさえか細く鳴っている。限定シングル「I Against I」で共演したモス・デフの姿もない。代わりに強調されたのはエーテル的な側面であり、ダーク・アンビエントな気配と初期のザ・キュアーのような不穏なムードだった。ゲスト・ボーカリストのひとり、シネイド・オコナーは奮闘しているが、やはり、ダディ・Gの不在がマッシヴ・アタックの無骨な面白さを消去していることは否めない。

それから7年後、ダディ・Gが復帰した5枚目のアルバム『Heligoland』(2010年)において、魅惑的なエーテル系ボーカリストのひとりであるホープ・サンドヴァルを招いたことは悪くはなかったし、その曲「Paradise Circus」も面白い曲ではあるが、「Teardrop」や「Protection」ほどのキラーチューンであるかどうかは議論が分かれるところだった。また、この頃には、『Blue Lines』の骨格の部分を濃縮したような、ベリアル(Burial)のような強力な新世代も登場している。マッシヴ・アタックに対する賛辞はかつてほど大きくはなかったが、”3D”・デル・ナジャの積極的な反戦活動はメディアの新たな関心ごとだった。マッシヴ・アタックはパレスチナ援助チャリティ団体のためにライブを実行し、その会場では地球温暖化や軍事予算に関する声高い批判を表明している。それを思えば、『Heligoland』のなかに「Pray for Rain」のような環境破壊の物語や、「Splitting The Atom」のような彼らのなかのポスト・パンク的なプロテスト・ソングが収録されたことも不自然ではない。

  銀行家たちは救済され、権力者たちは退却する

  週末の終わりには、快楽さえも破綻をきたす

  きみは受け入れるか、それとも拒むか、あるいは何を受け取るのか

  きみが受け取るもの、それは永遠の休暇

                ──「Splitting The Atom」

『100th Window』(2003)、『Heligoland』(2010)

耐え難い世界を告発する役割

それから10年後、権威に対する批判的態度は、パンデミック禍の2020年にYouTubeのみで公開された『Eutopia EP』においても強調された。気候変動、タックスヘイブン、ベーシックインカムに関する研究者たちの話をフィーチャーしながら、アメリカの詩人ソール・ウィリアムズ、スコットランドのヤング・ファーザーズらを招いて制作されたそれらオーディオ・ヴィジュアル作品は、彼らが過去の栄光への従属を拒んでいることの証左であり、いま彼らがやりたいことの片鱗が凝縮されてもいた。

こうした試みは、90年代とは違った意味でメディアから大いに評価された。それというのも、マッシヴ・アタックの真摯さは、かつてフランクフルト学派がアートに与えた役割、つまり「耐え難い世界を告発するという役割」を思い出させるからである。また、芸術の要諦とは個人の嗜好の連続性に迎合することではなく、むしろそれを打破することにあるのではないかという言葉を思い出させもする。2024年には、マンチェスター大学の気候変動研究所と組んで、ライブにおけるカーボン・エミッション(炭素排出量)を極限までゼロに近づけるという実験をブリストルでおこなった。それが、1980年のブリストルの地下のクラブでザ・クラッシュに興奮していた彼らの、現在である。たとえ世界が疲れていたとしても、彼らはまだ疲れていないのだ。

2026年、マッシヴ・アタックの新曲「Boots on the Ground」に、トム・ウェイツが参加していると聞いて、「その手があったか」とぼくは嬉しく思った。ウェイツのような存在が、ここしばらくのマッシヴ作品では失われていた。すなわち最初の2枚のアルバムにおけるトリッキーのような存在、実直な政治表現を超越した真に破壊的な存在が。

ぼくはまた、マッシヴ・アタックが夜の世界に舞い戻ってきてくれることを願っているオールド・ファンのひとりである。もし6枚目のアルバムがあるなら、そのとき彼らは再び夜を連れてくるだろう。去る4月に来日したダディ・Gの「Teardrop」のレゲエ・バージョンからはじまったDJを聴いた限りでは、マッシヴ・アタックがいまエネルギーを持っていることは明らかだった。彼はそれから、「Karmacoma」の重低音をもって満員の恵比寿リキッドルームを完璧にロックした。7月のフジロックで披露されるライブも期待できることは間違いないだろう。そしてそこでは、『Mezzanine』のリリース後の来日ライブでも見せたように、彼らの政治的なメッセージが掲げられるはずである。しかしそれがいかなるものであろうと、既視感のある体験であってはならない。それがオリジネイターとしての宿命であって、かつて自信をもって次のような歌を、華やかなスピード感が織りなす興奮からは隔絶された薄暗い場所から届けたグループの矜持なのだ。

  私の知っているある女の子がシェルターを必要としている

  だけど彼女は、誰も自分を救ってはくれないと信じ込んでいる

  私があなたの前に立ちはだかろう

  どんな衝撃も私が身代わりに受けよう

  あなたを守るために

            ──「Protection」 

2010年のフジロック、ヘッドライナーを務めたマッシヴ・アタック(Photo by Masanori Naruse)

FUJI ROCK FESTIVAL '26

2026年7月24日(金)〜26日(日)新潟・苗場スキー場

※マッシヴ・アタックは7月26日(日)出演

公式サイト:https://fujirockfestival.com/

Massive Attack & Tom Waits

「Boots on the Ground」

国内流通仕様12インチシングルレコード

2026年7月31日世界同時発売

詳細:https://bignothing.net/massiveattack.html

マッシヴ・アタック

輸入盤LP5タイトル

日本語帯付き仕様で数量限定発売中

詳細:https://www.universal-music.co.jp/massive-attack/news/2026-05-01/

>>>記事の本文に戻る