焼玉のトラクターと、半世紀のオペルGT|初夏のヴァンセンヌ城前、旧車ミーティング便り

先週の猛暑のなかで開かれた日本車のイベントから一転、さわやかな初夏の空気に誘われて、久しぶりにヴァンセンヌ城前で開かれるヴァンセンヌ旧車会(Vincennes en Ancien)の定例ミーティングへ足を運んだ。今回はジャガーがピックアップされる回と聞いていたが、この夏のパリ横断イベントの打ち合わせのため、主催者の一人であるティエリーと話していると、今日はトラクターにも集まってもらっているという。たしかにパリ横断では、トラクターも見どころのひとつだ。オークションで話題になるポルシェやランボルギーニのトラクターは目にするものの、旧いトラクターが実際どんなものなのかを知る機会はそうそうない。エキスパートに直接話を聞ける好機と思い、近づいてみることにした。

【画像】ヴァンセンヌ旧車会に集ったジャガーやトラクター、そしてオペルGTを愛する素敵なご婦人(写真29点)

並んでいる車両はいずれも自走してきたものだから、当然どれも動く。そのうちの一台について、構造の説明を受けながら実際にエンジンの始動を見せてもらった。手を動かすのはクラブのメンバーで、傍らではデモを担当するパスカル・ラドリエールさん。仕組みを一つひとつ解説してくれる。メーカーはランディーニ。今もトラクターを作り続けるイタリアの老舗で、モデルはL25。社名の頭文字と出力25CVをそのまま並べた、いかにも実用車らしいネーミングだ。1950年代のこの一台の心臓部は、セミディーゼル(焼玉エンジン)である。フランスでもこの方式は "semi-diesel" と呼ばれる。単気筒ながら、排気量は約4.3リッターと大きい。

焼玉エンジンに点火プラグはない。気化した軽油が高温の着火面に触れて燃える仕組みで、そのためにまず熱が要る。シリンダーヘッドには加熱用のユニット、すなわち焼玉があり、ここをガスバーナーで炙って温度を上げていく。およそ600度に達すると燃料が燃え、煙が立ちのぼる。それが合図だ。バッテリーは積んでいないので、あとは大きなフライホイールを手で勢いよく回して始動する。トラクターらしいというべきか、独特の排気音とともに目を覚ます。

面白いのはここからで、点火時期を調整できない構造ゆえに、ときに逆回転してしまう。そうなったら、いったん回転を止まるか止まらないかというほどの極低速まで落としてやる。すると、いつのまにか回転方向が入れ替わる。とはいえ放っておけばまた逆へ転じてしまうので、正しい方向に回り始めた瞬間を捉えて回転を上げる。その加減を、手動のスロットルレバーで操るのだ。定格でも毎分880回転というごく低速のエンジンだけに、その所作はどこかおおらかで味わい深い。気づけばこの一台の周りには人だかりができていた。大排気量のシングルが生む鼓動に、トラクターが少しばかり格好よく見えてきたのだった。

トラクターを後にして場内を歩いていると、以前紹介したフィアット500のオーナー、ミリアムに出くわした。この日の彼女は、ヴァンセンヌ旧車会の入場受付を務めている。挨拶を交わしていると、そこへ一台の赤いスポーツカーが入ってきた。ミリアムが「あ、コルベットね!」と声をかけると、窓から顔をのぞかせた白髪のご婦人が、すかさず返した。「コルベットじゃないわよ!」。コルベットよりはるかに小ぶりな、オペルGTである。

このご婦人、マリアさんは、いとも軽やかにオペルGTを操り、誘導に従って会場へ滑り込ませた。笑顔で降りてきた彼女に話を聞くと、1970年に新車で購入して以来、今日までずっと乗り続けている一台だという。その間にポルシェやトライアンフにも乗ったが、結局このオペルGTだけは手放さなかった。オーストリアに生まれ、スポーツカーを何台も所有する父の影響で車好きになった。そして何よりダンスが好きで、週末はディスコ通いに明け暮れていたという。そこで出会った男性が乗っていたのがオペルGT。彼のはブルーだったが、そのスタイルに一目惚れし、自分でも手に入れた。数年後にフランスへ移り住む際も、この一台だけは連れてきた。パリ横断はもちろん、ラリーにも積極的に出かける、実にアクティブなご婦人である。

この車にまつわる面白い話をひとつ、と尋ねると、いつものようにディスコへ向かったときのことを話してくれた。向かった先は、小さな町ながらディスコが17軒もあるという土地。当時は珍しい、女性が一人で乗るスポーツカーということで、彼女は警察官に呼び止められた。もちろん何も悪いことはしていないので平然と応じると、その警官はとにかく難癖をつけたかったらしく、不機嫌そうに「トランクを開けなさい」と命じた。彼女は「ないわよ」と正直に答える。それを知らない警官は憤慨し、「ならば俺が開けてやる!」と車のあちこちを調べはじめるが、本当にトランクなどない。「あの人、頭から湯気を出していたわね」と、マリアさんは当時を思い出して吹き出した。

2シーターであることにも、彼女なりの効用があるという。「ディスコの帰りに『乗せていってよ』と言われても、これなら断れるでしょう。私はタクシーじゃないんだから」。そう言って、いたずらっぽく笑う。続けて披露してくれたのが、自慢のヘッドライトだ。「これがリトラクタブルライトよ。ほかのみたいに、ただ上に持ち上がるなんて野暮じゃないでしょう」。オペルGTのライトは、コンソールのレバーを引くと半回転して顔を出す、手動の「ロールオーバー式」。一般的なポップアップ式とは一線を画す仕掛けである。

これほど美しく保つには専属の整備士でもいるのですか、と尋ねると、マリアさんは「いたのよ」とうなずいた。「でも、昨年亡くなってしまったの」。終始絶えなかった笑顔が、このときばかりは少し寂しげに陰った。この一台がこれほど美しいのは、彼女の愛情だけでなく、長年支えてきた人の手があったからこそなのだ。パリ横断で会いましょう。そう挨拶を交わして、私たちは別れた。

写真・文:櫻井朋成 Photography and Words: Tomonari SAKURAI