三谷幸喜のオリジナル脚本で、1984年の渋谷「八分坂」という商店街を舞台にした群像劇のフジテレビ系ドラマ『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』(毎週水曜22:00~ ※TVer、FOD、Netflixで配信)の第10話が、10日に放送された。今回は、ついに支配人となった久部三成(菅田将暉)の行く末と、蜷川幸雄演じる小栗旬について語ってみたい。

  • (左から)菅田将暉、小栗旬 (C)フジテレビ

    (左から)菅田将暉、小栗旬 (C)フジテレビ

【第10話あらすじ】リカにそそのかさせる久部

トラブル続きの中、綱渡りで『冬物語』を上演し終えた夜。ジャズ喫茶「テンペスト」で久部を待っていたのは、カリスマ演出家・蜷川幸雄(小栗旬)だった。憧れてやまない演出家からの高い評価と熱い演劇論を直に浴びて、久部は感無量だ。

さらに「とにかく今は、がむしゃらに突き進みなさい」と激励され、震えるほどの感動を味わう。一方、久部が気付かないところで蜷川は、マスター・風呂須太郎(小林薫)とも親しそうに談笑を交わす。

深夜のWS劇場。久部は支配人・浅野大門(野添義弘)とともに、劇場オーナーのジェシー才賀(シルビア・グラブ)と対峙(たいじ)していた。置かれたラジカセからは、逮捕されたトニー(市原隼人)の肉声で、事件の黒幕がジェシーであることが録音されていた。この恐喝により、久部らは、高い売上金を献上し続けていたジェシーから、献上金を大幅に下げさせることに成功する。

さらに、恋人関係となった倖田リカ(二階堂ふみ)から、支配人である浅野大門夫婦を追い出すことをそそのかされ、夫人のフレ(長野里美)の横領を理由に、久部自らが支配人になることに成功する。有頂天になっている久部にリカは「八分坂を出ましょう」とささやきかける。

一方で、WS劇場の舞台監督である伴工作(野間口徹)が飲みの席で、久部が、このWS劇場の「王」としてふさわしくないことを皆に語り聞かせていることも知らず…。

破滅へ向かうフラグが立ちまくる久部

ついに、『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』のタイトル回収の予兆が見られた! 大門がWS劇場の去り際に言う。「もしも、この世が舞台なら」「楽屋はどこにあるのか」と。これは久部も言及していたが、シェイクスピアの『お気に召すまま』の第2幕第7場のジャックのセリフ「この世はすべて舞台である」から引用されている。

一方で「楽屋はどこにあるだろう」は、このジャックの言葉に対する三谷幸喜のアンサーが、作品に込められているのだろう。ジャックのセリフの続きはこうだ。「男女はみな役者にすぎない」。つまり三谷は、「役者が“役を脱ぐ場所”はどこか?」という、シェイクスピアの思想に対する、「問い返し」を、次回の最終回で描くつもりだろう。

このタイトル回収のタイミングが、あまりにもシビれた。そして同時に、最終回への期待をもあふれさせるシーンになっていた。いよいよ次回、見られるのだ。三谷のシェイクスピアの思想に対する自身の回答が…! そして久部が破滅するのか、成功するのか、それとも彼自身が、どんな「楽屋姿」を見せてくれるのか。

それに今回は、個人的には見ていてヒヤヒヤした。敬愛する蜷川幸雄に褒められた有頂天の久部。「大門を追い出そう」「八分坂を出よう」とそそのかし続けるリカ。そして、劇団員みなの前で、彼が裸の王様であることを語って聞かせる場面──まさに破滅へと向かうフラグが立ちまくっている。このピンチ感を煽る脚本も演出も、上手いのである。

  • (左から)菅田将暉、二階堂ふみ (C)フジテレビ

    (左から)菅田将暉、二階堂ふみ (C)フジテレビ

『マクベス』になぞらせた物語をあえて最終回前に

興ざめになるかもしれないので簡潔に語るが、これは『マクベス』の物語を知る人にとっては、よりにんまりする展開だった。マクベスは、マクベス夫人に「あなたは特別」とそそのかされ、暴走が始まり、「王殺しを行い」「王の椅子に座り」「もう元の自分には戻れなくなる」。久部は、「王たちをすべて追い出し」「劇団の王として完全に持ち上げられ、引き返せなくなった」状況だ。

『マクベス』に従えば、この後、貴族たちに「彼はもはや王ではない」という「貴族たちの密議、王を見限る相談会」が行われるのだが、それが伴による「彼には何もない」と皆に語るシーンに当たる。いわば「反クベ同盟」が結ばれそうな気配…。これらの展開には、背筋がゾッとした。

二階堂演じる倖田リカは、おそらく『リア王』のヒロイン・コーデリアから取った名前だが、今、リカがやっているのはマクベス夫人の「そそのかし」。一方のコーデリアは、マクベス夫人とは正反対に、責任から逃れることなく、すべてを引き受け、王と心中する。リカは、マクベス夫人となるのか、コーデリアとなるのか。

それとも、三谷によるシェイクスピアへの「問い返し」によって、「楽屋」があらわになり、これらシェイクスピアのオマージュから抜け出して、まったく違うラストを見せてくれるのか。有力なのはこちらであり、だからこそ、三谷幸喜のシェイクスピアからの「脱皮」がどう描かれるか、楽しみでならない。