神奈川県の小田原駅と大雄山駅を結ぶ伊豆箱根鉄道大雄山線が、10月15日に開業100周年を迎えた。大雄山線は、地元で「道了尊」と呼ばれ親しまれている大雄山最乗寺(南足柄市)への参詣者輸送をおもな目的として1925(大正14)年10月15日、大雄山鉄道によって開業した。
1933(昭和8)年には、伊豆・箱根エリアで別荘地開発事業などを手がけていた、西武グループ創業者の堤康次郎率いる箱根土地(現・プリンスホテル)の傘下に入り、1941(昭和16)年、戦時統合により同じく西武系列の駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道)と合併。1957(昭和32)年に伊豆箱根鉄道と改称し、現在に至る。
大雄山線を建設した背景は
伊豆箱根鉄道は非常にユニークな特色を持つ鉄道会社だ。現有する鉄道路線は駿豆線(三島~修善寺間19.8km)と大雄山線(小田原~大雄山間9.6km)の2路線で、駿豆線は静岡県内で路線が完結する一方、大雄山線は神奈川県内で路線が完結し、それぞれの起点駅である三島駅と小田原駅はJR東海道線を介して36.8kmも離れている。
また、車両も駿豆線では20m車が運用されているのに対して、大雄山線では18m車のみが運用されている。その理由は大雄山線の緑町駅付近に半径100mの急カーブがあり、20m車では曲がることができないためである。
このような特色が生じた理由は、両路線が別々の鉄道会社として発足し、後に統合されたという歴史的背景によるところが大きい。当記事では大雄山線が誕生するまでの歴史を詳しく見ていくことにする。
大雄山線の前身となった大雄山鉄道は、冒頭にも記した通り大雄山最乗寺への「参詣鉄道」として建設された。同様の目的で建設された鉄道は、川崎大師への参詣客輸送を目的とする大師電気鉄道(現・京急大師線)をはじめ、讃岐鉄道(現・JR土讃線の一部)、成田鉄道(現・JR成田線)、高野鉄道(現・南海高野線)、鞍馬電鉄(現・叡山電鉄)など、枚挙に暇がない。鉄道を利用した有名寺社への参詣が、当時、いかに人気があったかの証左であろう。
さて、大雄山線の終点・大雄山駅からおよそ3kmの距離にある最乗寺は、室町時代の応永年間に創建されたという長い歴史がある。「最乗寺は江戸時代から参詣客が多く、明治になって鉄道が建設されると多くの人々が鉄道を利用して参詣に訪れるようになった。だが、当初は駅から距離があり不便だった」と話すのは、伊豆箱根鉄道の元総務課長で、長年、広報を担当した芹澤章裕氏だ。
当時の交通事情を見ると、1887(明治20)年に東海道線が横浜駅から国府津駅まで、さらに1889年に現在の御殿場線(国府津~松田~山北~御殿場~沼津間)ルートで国府津駅から静岡駅まで延伸された。当時の技術では長大なトンネルの掘削を伴う現在の東海道線ルート(国府津~小田原~熱海~沼津間)での建設が困難だったためである。
この東海道線の延伸により新たに設置され、最乗寺への最寄り駅となった松田駅や山北駅は参詣客で大変ににぎわうようになった。その様子を当時の新聞記事で見てみよう。
【1905(明治38)年5月26日付横浜貿易新報記事より】
「道了寺と松田駅
来る二十七、二十八両日大祭典を執行するにより京浜の信者講中等参詣登山者多数あるべく鉄道局よりは特に臨時列車を増発し(中略)松田駅はなかなかの賑を増したるが同駅より道了寺(筆者注 : 最乗寺のこと)まで二里余にて山は十八丁なりといふ」
続けて記事は、「松田の次駅なる山北よりするも道了寺へは二里強にて静岡県よりする人々は同駅よりする方順序なり」と記している。東京・横浜方面からの乗客は松田駅、静岡県方面からの乗客は山北駅の利用が多かったことがうかがえる。
なお、芹澤氏によると最乗寺への出発点としては松田駅、山北駅のほか、「当時、国府津駅から小田原を経由して箱根湯本まで小田原電気鉄道(路面電車)が走っており、その途中駅である本社前停留場(現・幸町バス停付近)から600m離れた場所に馬車乗り場があった。ここから馬車で最乗寺へ行くこともできた」という。ただし、いずれのルートを利用するにしてもかなりの距離があり、不便なのは同じだった。
度重なる路線変更を経て開業
こうした背景から、最乗寺信徒らが発起人となって鉄道敷設へと動き出すことになる。当初の計画路線は、小田原を起点に多古(現・五百羅漢駅付近)、塚原、飯沢(現・南足柄市飯沢。最乗寺への登山道にあたる)を経由し、吉田島(現・開成町)へ。ここから酒匂川を越え、東海道線(現・御殿場線)の松田駅に接続する予定(第一次計画)だった。
だが、酒匂川を越える橋を架けるのには膨大な費用がかかるほか、1916(大正5)年には熱海線(現・東海道線の国府津~熱海間)の建設がいよいよ始まり、小田原駅(現・JR小田原駅)が設置されるのも時間の問題だった。このような事情から松田駅への接続を取りやめ、吉田島までに短縮。1919(大正8)年12月、小田原~吉田島間の鉄道敷設を出願した(第二次計画)。
その後、1921(大正10)年には計画を再度縮小し、小田原~飯沢間としている(第三次計画)。吉田島までの建設が「実測調査の結果土木費・用地費が予定額を大幅に超過していた」(『南足柄市史』)のが理由だという。酒匂川の支流である狩川の南側に位置する飯沢から吉田島方面へ行くには狩川を渡らなければならず、小さな川とはいえ、その架橋費用なども節約の対象になったのだろう。
こうして計画が落ち着いたかに見えた矢先に、今度は終点駅予定地の南足柄村(現・南足柄市)内で争いが勃発した。狩川の南岸の飯沢地区と北岸の関本地区の間での駅の誘致合戦が始まったのである。村を二分するかなり激しい争いの末、最終的には当時の村の中心であった関本地区に駅を開設することになった。その結果、大雄山鉄道は塚原駅と和田河原駅の間で狩川を渡らなければならなくなった。
ちなみに、1923(大正12)年6月19日付の横浜貿易新報が「問題の大雄山鉄道も小田原松田間に運転を計画している」と報じている。「問題の」というのは、この誘致合戦のことを指しているものと思われるが、「小田原松田間」としているのは誤報であろう。
以上のような経過をたどってようやく路線が確定し、1923(大正12)年7月、小田原で地鎮祭が執り行われ建設工事に着工した。しかし、その直後の9月に関東大震災に見舞われ、「工事箇所および小田原事務所が大損害」(『南足柄市史』)を被るなどした。このようなさまざまな試練を経て、1925(大正14)年10月15日、大雄山鉄道は開業したのである。
開業後、大雄山鉄道は経営不振に
開業までこぎ着けることはできたものの、その後の営業成績は芳しくなく、ほぼ毎期のように赤字を計上し続けた。原因のひとつに小田原~大雄山間の片道運賃が28銭と高額だったことが挙げられる。大正10年頃の公務員の初任給が70円だったというから、当時の28銭は現在の貨幣価値に換算すると1,000円くらいであろう。そのため、利用者は「学校教員や地元の資産家層」(『南足柄市史』)などごく一部に限られ、一般の住民や参詣者には敬遠されたという。
さらに昭和初期の経済不況や1928(昭和3)年に発生した最乗寺の火災などの不運にも見舞われた。そして1927(昭和2)年には一部区間が併行する形で小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)が開業。1931(昭和6)年以降は足柄自動車が関本~小田原駅間で自動車営業を開始するなどライバルが登場した影響も大きかった。
そんな中でも大雄山鉄道は営業努力を続けた。開業時の大雄山線の小田原側の起点だった仮小田原駅は、熱海線の小田原駅から600mも離れていて不便だった(現・緑町駅の先の東海道線ガードをくぐった付近に位置した)。そのため1927(昭和2)年に小田原駅側へ約300m線路を延伸し、新小田原駅(現・緑町駅の手前)を開業するなどしている。
だが、こうした努力も結局実を結ばず、冒頭にも記した通り大雄山鉄道は1933(昭和8)年に堤康次郎率いる箱根土地の傘下に入ることとなった。その過程について『箱根の近代交通』(加藤利之著)は、「経営の不振から内紛が起こって身売りすることになり(中略)堤康次郎の傘下西武グループに入った」と記している。
このように開業から約10年にわたって不遇な時代が続いたものの、その後は一転して経営が持ち直していく。世の中の景気が上向きくとともに、最乗寺の火災からの復興も進んだ。さらに沿線に富士フイルム(当時は大日本セルロイド)の足柄工場が竣工し、定期利用が伸びる結果となった。そして1935(昭和10)年5月には、念願の小田原駅構内への延伸を果たしている。
これと同時期の1934(昭和9)年12月、丹那トンネル開通にともない小田原駅経由の熱海線が東海道本線となったことで同線の運転本数が増え、このエリアの交通利便性は格段に向上した。
以上が大雄山線の略歴だが、同路線は長らく旧型国電車両が活躍した歴史もあり、車両の面から見ても興味深い路線だ。記事内に伊豆箱根鉄道から借用した昔の写真を数枚掲示した。転載先などで写真が表示されない場合は、元記事を見てほしい。








