明治の終わりから昭和の初めにかけて、現在の神奈川県秦野市から二宮町まで、田園風景の中を走った小さな鉄道があった。
この鉄道は1906(明治39)年に「湘南馬車鉄道」としてスタート。1913(大正2)年、動力を蒸気に変更し、会社名も「湘南軽便鉄道」とした。1918(大正7)年、「湘南軌道」に社名変更した後、1937(昭和12)年8月に廃止されるまで存続した。
地元では「軽便」などと呼ばれ、親しまれたとのこと。今回の記事では湘南軌道時代も含め、おもに「湘南軽便」と呼ぶことにする。
■大山への参詣客と煙草を運んだ「湘南軽便」
それでは秦野から二宮まで、約10kmの「湘南軽便」廃線跡を探索してみよう。
『湘南軽便鉄道一世紀記念事業 湘南を走った小さな汽車』(秦野市・中井町・二宮町・大磯町広域行政推進協議会発行)という冊子によれば、湘南軽便を敷設した目的は大きく2つあり、ひとつは東海道本線の二宮駅で降りた大山への参拝者を秦野まで運ぶこと、もうひとつは秦野の特産品であった「葉たばこ」を輸送することだったという。
江戸時代の1707(宝永4)年に起きた富士山大噴火で火山灰が降り積もり、非常にやせた土地になった秦野の耕作地では、以降、こうした土地での栽培が適している葉たばこが盛んに作られるようになった。
1907(明治40)年に竣工した「秦野煙草製造所」の製造工場は、現在はイオン秦野ショッピングセンターになっている場所にあった。湘南軽便の「秦野駅」は、県道を挟んで向かいにあるドコモショップの敷地内にあり、当時は駅から工場内に引込み線が敷かれ、荷物の積み卸しが行われていたという。
まずは小田急線の秦野駅から北側に600mほどの場所にある湘南軽便「秦野駅」跡へ向かうことにする。ドコモショップの前にある「軽便みち」と記された石柱が目印だ。
ここから南へ向かい、最初の停留所である「台町駅」跡をめざして歩いて行こう。筆者にとって、この道を歩くのは2度目だが、以前歩いたときは「秦野駅」跡から「台町駅」跡までのどこに線路が敷かれていたのか、いまひとつはっきりしなかった。
今回、地元の方から話を聞き、おおよその廃線跡を特定することができた。山口屋酒店(秦野市本町3丁目)のご主人、山口秀夫さんから、「私は戦後の生まれで実際に軽便が走るところは見ていないものの、店の前の道は昔から『軽便みち』と呼ばれています」と教えていただいた。
この山口屋酒店の前にある道を200mほど南に進むと県道にぶつかり、県道を渡った先の石材店の店先に「台町駅」跡を示す記念碑がある。
馬車鉄道が最初に敷設された当時、この台町駅が秦野側の終点であり、「秦野駅」と呼ばれていたそうだ。しかし、ここから煙草の製造工場まで800mほど離れており、不便だったため、1919(大正8)年に延伸が計画された。
ところが、用地取得の困難に加え、1923(大正12)年に関東大震災が発生したことで計画が遅れ、ようやく工事が完了したのは1924(大正13)年3月のこと。新しい秦野駅の設置にともない、元の秦野駅は台町駅と名を変えた。
■明治から昭和の記憶をたどる旅に
台町駅を過ぎると、湘南軽便の線路は南を流れる水無川を渡ることになるが、鉄道橋はどのあたりに架けられていたのだろうか。ここでも山口さんから、記憶を頼りに「対岸にガス会社のタンクが2つ見えますが、あれよりも左側。新常盤橋との間に、昭和の終わり頃まで鉄道橋の橋脚が残っていたのを記憶しています」と教えていただいた。
現在、その付近に飛び石で対岸へ渡れるようになっている場所がある。前出の冊子に掲載されている古い写真も照らし合わせると、おそらく飛び石の場所よりもほんの少し下流側に鉄道橋があったものと推測される。
さて、新常盤橋を渡り、「上大槻入口」と示された交差点を右に入ると、養泉院という寺院がある。その門前に「軽便みち」であることを記す石柱が建っている。この石柱があるおかげで、ここから先は廃線跡をたどりやすくなる。
養泉院のすぐ先で小田急線のガード下をくぐる。ここで湘南軽便と小田急線の関係についても、少々記しておく必要があろう。じつは、湘南軽便が廃止に追い込まれたのは、1927(昭和2)年に小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)が開業し、京浜方面への客を奪われたことが大きな原因になったといわれている。しかも皮肉なことに、小田急の敷設工事に際し、レールを運んだのは湘南軽便だったという。
ちなみに、湘南軽便の「秦野駅」がすでに存在していたため、新たに開業した小田急の駅は「大秦野駅」と名づけられた。湘南軽便の廃線後もこの駅名のまま営業が続けられ、小田急線の駅が秦野駅に改称されたのは1987(昭和62)年のことだった。
小田急線のガード下をくぐって歩いて行くと、間もなく「軽便みち」(旧道)は県道(新道)と交差する。旧道は右へ左へとカーブしながら進むので、後からまっすぐに敷かれた新道と何度か交差する。
信号を渡った先に「軽便みち」の石柱があるのを見ながら、さらに300mほど歩を進めると、右手に嶽(だけ)神社の森が見えてくる。神社の鳥居を少し通り過ぎたところに「大竹駅」跡の記念碑があり、その説明によれば、この付近には「蒸気機関車に水を供給する水槽や待避線の施設が設けられていた」そうだ。
「大竹駅」跡の先で再び新道と交差し、旧道は「南が丘団地入口」の信号を渡った先のガソリンスタンドの裏手へと続く。探索を続けるには、この先を横切る東名高速の南側に出なければならないが、そのためには新道を進まなければならない。少しの間だけ、「軽便みち」とお別れすることにしよう。