ゴール前で絶叫する魂の競馬実況や、「マルカトーレ青嶋」と親しまれたハイテンションなサッカーのナレーションなど、数々の名場面を言葉で彩ってきたフジテレビの青嶋達也アナウンサーが、8月末で定年退職を迎える。9月からはフリーとして現在の担当番組を継続しながら、新たなチャレンジにも意欲を示した。

スポーツ実況を中心に活躍してきたが、「バックボーン」だというのは、若手時代のニュースキャスターの経験。そこで受けた大先輩・木村太郎の金言や、「花の三人娘」と呼ばれた同期アナとの関係性、山形での新たな舞台、家族や後輩たちへの思い、そしてもちろん競馬&サッカー実況の裏側まで、たっぷりと話を聞いた――。

  • フジテレビを定年退職する青嶋達也アナウンサー

    フジテレビを定年退職する青嶋達也アナウンサー

原点はラジオも…飲んだくれた後に運命の電話

――競馬やサッカーの実況で長年にわたり大きな存在感を示してきた青嶋さんですが、そもそもなぜアナウンサーを目指したのですか?

テレビも好きだったのですが、ラジオが好きだったんです。ただ、ニッポン放送の試験を3回受けるチャンスがあったものの、3回とも落ちてしまいまして。

――3回もですか!?

バブル時代の当時は大学3年にも受けるチャンスがあって、それが1回目で落ちて。4年で一般職とパーソナリティ職で2回受けたのですが、どちらもダメでした。そんな中でフジテレビを受けたのですが、「どうせまたダメだろう」と思って仲間と渋谷でベロンベロンに飲んだくれた後、住んでいたアパートに朝方帰ったら、ウグイス色の固定電話が鳴って、それが内定の連絡でした。そこから37年です。

――ラジオはどんな番組を聴いていたのですか?

AMラジオは夜になると全国いろんな局が東京でも入ってくるので、いろんな番組を聴いていたのですが、小島一慶さん(当時・TBSアナウンサー)や吉田照美さん(同・文化放送アナウンサー)など、とにかく聞こえる範囲でいろいろ聴いていましたね。

――そうすると、バラエティ番組の司会などを志望されたのでしょうか?

バブル期の男子ですから、“認められたい・目立ちたい・褒められたい・評価されたい”という気持ちは、なくはなかったです(笑)。当時は久米宏さん、筑紫哲也さんとニュースキャスターが存在感を放ち始めた時代。さらに古舘伊知郎さんがテレ朝を辞めて幅広く活躍され、逸見政孝さん(元フジテレビアナウンサー、88年3月退社)とはちょうど入れ違いで入社しました。そういうのもあって、やっぱりキャスターというものにも憧れていましたね。

一方で、音楽やスポーツの現場に足を運んで、“まだ誰も気づいていないけど、この人すごいぞ!”という原石を見つけて、光を当てて紹介したいなという思いも、ぼんやりとありました。それは『パック・イン・ミュージック』(TBSラジオ)で、林美雄さんがライブハウスに通って見つけたアーティストを紹介して、人気に火がつくというプロセスがあった、という話を本で読んで感銘を受けていたからなんです。

木村太郎からの金言「本当にその通りでした(笑)」

――フジテレビに入社して、『テレビ夢列島』(後の『27時間テレビ』)の提供読みで画面デビューされて、最初はどのようなご担当だったのですか?

昭和63年の入社で、昭和天皇のご容体に注目が集まる中で、ほぼ毎日泊まり勤務でした。最初はリポートなどまだ任されないので、もしもの時に河田町(旧フジテレビ社屋)の報道センターで、メインを務めるキャスターが登板できるようになるまでをつなぐ役割です。年が明けて昭和天皇が亡くなった時は自宅のアパートにいたのですが、朝、電話で呼び出され、そのまま葉山の御用邸に行き、そこから何度も中継リポートをしました。悲しい出来事の中での貴重な経験でした。

――入社3年目の90年には、平日夜のニュース『FNN NEWSCOM』のサブキャスターに抜てきされました。

あの時の経験は、私のバックボーンになっていますね。自分の親と同年代で、NHKであれだけ活躍されていた木村太郎さんがフジテレビに転じてメインキャスターを担当され、4年間ご一緒しましたが、当たり前ですが、この人にはかなわないと思わされました。いつか自分が大きくなって、世界を動かすトップにこんなインタビューができるのか、あるいはリポートできるのかと考えると、木村さんの域にたどり着くまでは相当遠いなぁと思いましたね。

そんな中、番組の準備をしながらふと木村さんに「どうやったら人脈というものができていくのですか?」なんて、今考えるとまあ雑な質問をしたことがあるんです。その時に木村さんに言われた言葉が今でも宝物なのですが、「青ちゃん、同世代を大事にするといいよ」と。「自分が年次を重ねてキャリアを積んでいくのと同時に、周りもみんな偉くなっていくから、それが重要な人脈になる。自分よりも年齢や経験が上の方に飛びついていくのも大事だけど、そんなに焦らなくてもいいよ」と言われたのです。本当にその通りでした(笑)。実際にそういう場面が多々ありましたね。

  • 『FNN NEWSCOM』左から 近藤サトアナ(当時)、木村太郎、青嶋達也アナ (C)フジテレビ

    『FNN NEWSCOM』左から 近藤サトアナ(当時)、木村太郎、青嶋達也アナ (C)フジテレビ

――青嶋さんの同世代と言えば、当時「花の三人娘」と言われた有賀さつきさん、河野景子さん、八木亜希子さんが同期入社ですね。

勢いはすごかったですね。同期なのに、新人の頃から3人はそれぞれ忙しくて、なかなか会えなかったですから。もうスターなんですよ。一方こちらは、河田町のアナウンス部の折りたたみベッドで仮眠を取って、そんなに画面に映ることもなく…。

――「なにくそ!」という悔しい気持ちもあったのですか?

なくはなかったですけど、どんな仕事も大事な仕事なんだと自分に言い聞かせてやっていました。

――当時はバブルの絶頂期で、フジテレビも視聴率三冠が続く絶好調の時代だったと思います。

いやあ、勢いがありましたよね。きっと自分も浮かれていたと思います(笑)。でも、夜勤や泊まり勤務を若手男性アナウンサーの宿命としてやっていると、突発的なニュースに遭遇することがあるんです。美空ひばりさんが亡くなったという第一報や、「リクルート疑惑」が「リクルート事件」に変わった時も、アナウンス部から報道センターに駆け出してカットイン(※番組の途中で伝える緊急ニュース)して読みました。そういう経験が、少しずつ自信を与えてくれる貴重な機会になったと思います。

その中でも忘れられないのは、『NEWSCOM』を担当していた時に、イラクとアメリカのジュネーヴでのトップ会談を、木村太郎さんが現地から生中継で伝えるというのがあって、それは深夜から早朝にかけて2時間15分の生放送でした。木村さんの代わりに河田町のスタジオでゲストのエキスパートの方たちと展開して、各地の特派員や政府の反応などを、中継を交えながら進行していく。いくら夜のニュースをサブキャスターとして担当するようになった後とはいえ、全然経験値がないわけですから、緊張しすぎて座りながら膝が動かなくなったのを覚えています。今思い出してもしびれる生放送でした。