――青嶋さんといえば競馬実況ですが、入社してどれくらいの時期から担当されているのですか?
比較的早い段階で競馬中継のチームに入れていただきました。年次が近い3年先輩の三宅正治さん、1年先輩の塩原恒夫さんがいて、理解あるチーフアナのもとでチームに入れていただけたので、ありがたかったですね。学生時代から競馬はまあまあ見ているライトファンではあったので、民放で競馬中継のレギュラーがあるのはフジとテレ東だけでしたから、「門を叩く価値は大いにある」と思いました。
――素人の我々から見ると、競馬は展開が速くてスポーツ実況の中でも特に難しそうな印象があります。
覚えることが多いですね。独特の用語、厩舎の人間関係、血統面…でもそのおかげで今も楽しめるんです。
――青嶋さんの競馬実況は、レース序盤は淡々と冷静に情勢を説明しながら、最終コーナーに差し掛かって徐々にテンションが上り、最後のゴールでは絶叫して名フレーズを残すという、このグラデーションがとても心地良くて、多くの人の記憶に残るレースの一部を構成していると思います。あの“青嶋節”はどのように確立されたのですか?
最初の頃は、今思うとひたすら力任せで美しくない実況だったと思います(笑)。大川和彦さんや堺正幸さんなど、お手本になる素晴らしい師匠のような先輩のもとで仕事をしてきたので、そこで見よう見まねで学んで取り入れるということもやっていましたが、他局のラジオの実況なども聴いて「この人のこういう実況をやってみよう」とこっそり試しては失敗しての繰り返しでしたね。
――どこかで自分流を確立したという瞬間はあったのですか?
「俺のものになった」なんて瞬間はないです。だんだん熟成してきて、気がつけば出来上がってきた感じだと思います。その上で、記憶にも記録にも残るビッグレースに巡り会えた時に、喉や内臓の奥底から言葉が引っ張り出されるという感覚があるような気がします。
――様々な伝説的なレースを実況されてきたと思いますが、特に印象に残るのは何でしょうか?
それは、5時間は語れますよ(笑)。よく周りからも言われるのは、1998年の毎日王冠。“伝説のGII”といわれたレースです。サイレンススズカ、グラスワンダー、エルコンドルパサーという当時のトップホースがGIではなくGIIに集結するという巡り合わせもすごいですし、サイレンススズカが見事な逃げ切りを決めるのですが、あの日の東京競馬場の大歓声は完全にGIでしたね。
――ゴール直後に「どこまで行っても逃げてやる!」という名フレーズが出ました。
ただの雑な叫びです(笑)。でも、サイレンススズカのそれまでのレースぶりや背景を見続けた結果、自然に出てきたのかなと思いますね。
――事前にフレーズを準備されることはないのですか?
ある時期は「この馬が勝ったらこのワードを言おう」と準備していたこともありましたが、私の場合は何か押し付けがましくなってしまって、うまくいきませんでした。
それから10年後の2008年の秋の天皇賞でのウオッカ、ダイワスカーレット、ディープスカイのデッドヒートもすごかったです。写真判定が長くて、すぐに決着がつかずにずっと待つことになったんですよ。最終的には僅差で武豊さんが騎乗していたウオッカが勝ったのですが、内で先行したダイワスカーレットが完全に後退したと思っていたら、差し返す。そこはもうひたすら「ウオッカ!」「ダイワスカーレット!」「ディープスカイ!」と名前を叫んで、ゴールがどうなるのかを視聴者の方と一緒に追いかけるのでいっぱいいっぱいだったと思います。終わった後は本当に喉がカラッカラになって、しばらく黙ってしまったような気がします(笑)
――「大接戦でゴール!」という絶叫が、後に『ウマ娘』でも「大接戦ドゴーン!」というフレーズになりました。
そうやって取り上げていただいて、残るとは思わなかったですね(笑)。後々まで語り継がれる名勝負の実況を担当できたのは、本当に宝物です。でも、あんまりアナウンサーが前に出るのは良くないですから。レースやジョッキー、サラブレッド、それにファンのみなさんが主役なので。
――競馬実況の実績から「走れマキバオー」(96年)でCDデビューもされましたよね。
当時デスクの野間(脩平)さんに「競馬の録音があるから、このスタジオに行ってくれないか」と勤務の指令をもらったので、ナレーション収録だと思って向かったら、レコーディングスタジオでした。そしたら、曲の間の早口実況のところをやることになって、1ミリも歌ってはいないんです(笑)
サッカー好きが集まって熱を詰め込んだナレーション原稿
――青嶋さんの実況といえば、サッカーのお話も聞かないわけにはいきません。こちらはいつ頃から担当されるようになったのですか?
『NEWSCOM』を4年間担当して終了したのが94年の春で、それまで競馬を担当していたこともあり、「スポーツ実況のアナウンサーとして本格的に頑張らないか?」ということになりました。ボクシングや、まだ地上波でやっていた『プロ野球ニュース』を担当しつつ、当時Jリーグが2年目で大人気だったので、こちらもやってみるかということで、飛び込んでみました。
そうこうするうちに、三浦カズ(知良)さんがセリエAのジェノアCFCに移籍するんです。そこからセリエAの中継実況もやるようになりましたが、ほぼ毎週、大体が日曜の深夜で、競馬実況も続けていたので、昼夜二部興行でしたね。今思うと、よくやっていたと思います(笑)
――セリエAについては、一から勉強という感じでしょうか。
そうですね。インターネットがまだないような頃だったので、『ガゼッタ・デロ・スポルト』というイタリアの新聞を何日か遅れで取り寄せて、みんなで回し読みしていました。それと同時に『セリエAダイジェスト』という番組が始まり、各試合のダイジェストのナレーションを担当させていただくようになるのですが、その中で選手のプレースタイルやキャラクター、チームの置かれているポジション、いろいろな人間臭いキャラクターというのが出てきますよね。そこで、メインの試合以外のハイライトで、いろんなコメントで遊んだりしてキャラクター付けをしながら、選手のことを覚えていった感じでした。
――そこから、また“青嶋節”が生まれました。やはり競馬実況がベースにあったのですか?
ベースになっていたかは分からないですが、あえて情報をなるべく詰め込みたいというのはありましたね。カリカチュアライズというか、本人は絶対言わないだろうけど、勝手に口調を作ってしまって(笑)、怒られない範囲でいろいろ工夫していましたね。
――『プロ野球珍プレー好プレー』の、みのもんたさんのように(笑)
そうですね。今の時代にああいう番組が作れるのか、正直分からないですが、実はちゃんと台本があったんです。スポーツライターとして今も活躍されている加部究さんという方がいらっしゃるのですが、当時から欧州サッカーについても本当に何もかも精通しておられる方でした。だから、編集済みのダイジェスト映像を見ながら一気に情報を盛り込んだ原稿を書き込んでくれる。でも、そのまま読むと尺に入り切らない量なので、映像とのシンクロを考えながら、短くしたり、切ったり、順番を変えたり。さらには、「この人だったらもっと叫んでいいだろう」とか「もっと割り切ったキャラクター付けにしてしまおう」とか、ディレクターはもちろん、技術スタッフもサッカー好きが集まっているので、みんなでああだこうだ言いながら、最終的な原稿に詰め込んでいった感じですね。
――ものすごく熱があるいい現場ですね。
いやもう楽しかったです! だから、『セリエAダイジェスト』は三浦カズさんが日本に戻ってきた後、何年かして一度終了してしまったのですが、その後中田英寿さんがフランスワールドカップで存在感を示して、ペルージャに移籍することがきっかけになって、復活したんです。もう二度とあのナレーションをやることはないだろうと覚悟していたので、これはうれしかったですね。
――青嶋さん自身にもキャラクターが付いて、「マルカトーレ青嶋」とマイクネームも生まれました。
『セリエAダイジェスト』の前身で『デタカルチョ』というトトカルチョ形式でサッカーの試合の勝ち負けを予想する深夜番組があったんですよ。その発展形で、『セリエAダイジェスト』でも、どの選手が得点するかというのを視聴者が予想してハガキで送っていただくというコーナーがあったんです。それで、点を取ったら「マルカトーレ」(※イタリア語で「得点した人」)、取らなかったら「バツカトーレ」(※番組の造語)と呼んでいたのですが、気づいたら画面右下に「ナレーター:マルカトーレ青嶋」と出ていました(笑)

