テレビ画面を注視していたかどうかが分かる視聴データを独自に取得・分析するREVISIOでは、4日に放送されたNHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』(総合 毎週日曜20:00~ほか)の第17話「乱れ咲き往来の桜」の視聴分析をまとめた。

  • 『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第17話より (C)NHK

    『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第17話より (C)NHK

「源内とわしが思い描いたとおりの国となった」

最も注目されたのは20時32分で、注目度74.1%。田沼意次(渡辺謙)が領国である遠江・相良を巡回するシーンだ。

意次は相良城の完成を機に自身の領国・相良に入った。港には多くの人々が行き交い、活気にあふれている。相良藩の家老である井上伊織(小林博)によると、意次によって整備された田沼街道が良い影響をもたらしているようだ。

視察を進める意次の側を大八車が通り過ぎる。積み荷は相良の名産品となったロウである。「お殿様でごぜえますだか!?」突然、大勢の漁師たちが意次に詰め寄ってきた。漁師たちの剣幕に意次は警戒の表情を浮かべた。相良城に入った意次は、先ほどの漁師たちから献上されたカツオに舌鼓を打っている。漁師たちは直訴ではなく、意次に感謝を込めて献上の品を持参してきたのだった。伊織は相良には意次に不満を持つ者はいないと胸を張った。

米以外の仕事が増えて百姓は豊かになり、整った街道・港で商人も潤い、運上・冥加が多く入り、相良城の普請は年貢を上げることなく済んだということだ。意次は伊織の報告を聞き、平賀源内(安田顕)を思い出した。ロウの材料となるハゼを植えようと進言したのは源内であった。源内は街道や港の整備は城の普請後ではなく、先に整えるべきだと主張していた。「ここ、相良は源内とわしが思い描いたとおりの国となった」意次が言うと、三浦庄司(原田泰造)も「お見せしとうございましたなぁ」と源内を思い、感慨深げに言葉を漏らした。

  • 『べらぼう』第17話の毎分注視データ推移

「夢がちょっと叶ってて泣けてきた」

注目された理由は、源内の生前の功績と意次との関係性に、視聴者の注目が集まったと考えられる。

意次の領国である相良は目覚ましい発展を遂げていた。意次の施政によって町は活気にあふれ民の暮らしは潤うが、相良の開発には今は亡き源内が深く関わっていた。大名の住む城よりも、港や街道など民に有益な設備の整備を優先とする源内の方針が良い効果をもたらしたのだ。源内の功績を語る意次の表情は印象的だった。

SNSでは、「蔦重(横浜流星)といい田沼さまといい、源内先生が死んだ後も彼の意志を生かし続けてるんだな…」「いまだに源内先生ロスだから、意次さまと源内先生の夢がちょっと叶ってて泣けてきた」「年貢を上げずに、産業を促進して港や街道を整備した結果、町人の収入が増えて税収が増額したのってすごい」と、意次と源内の内政手腕が称賛されている。意次にとって源内は優秀なブレーンだったことが改めて伝わってきた。

意次の相良城は、遠江・榛原郡(現在の静岡県牧之原市)にあった城。意次は御側御用取次であった1758(宝暦8)年に江戸の呉服橋御門内に屋敷を与えられるとともに、相良藩1万石の領主となったが、この時の相良藩には城はなく陣屋のみが存在していた。陣屋とは城を持たない小規模な大名や、旗本、郡代、代官などが、領地に築いた拠点。城に比べて小規模で、石垣や堀・櫓などの防御施設も簡素な作りだ。

1767(明和4)年に将軍・徳川家治より神田橋御門内に屋敷を与えられ、築城も許可されて城主格となった意次は、翌年の1768(明和5)年に相良城の着工に取り掛かり、12年間の月日を経て1780(安永9)年に城が完成すると検分の名目で相良入りした。意次は参勤交代をしない定府大名だったため、実は2度しか領国に入っていない。城の普請とともに整備された東海道の藤枝宿と相良を結ぶ約7里(約28km)の街道は意次の名を冠して田沼街道と呼ばれた。

当時、大井川を渡河するには、幕府によって東海道の島田・金谷の渡しに限定されていたが、大井川を渡ることができる田沼街道は人々にとって重要な生活路となった。意次が田沼街道を通ったのは2度目の相良入りの復路で、生涯で一度だけと伝わる。多忙な人物らしいエピソードだ。

定府大名は領国には帰らず江戸に常駐することを義務付けられた大名のことで、譜代大名の一部や、領地が小さく小規模な大名、老中、若年寄などの幕府の要職についている藩主が該当する。松平武元(石坂浩二)や松平定信(寺田心)も定府大名だった。