2番目に注目されたのは20時32分で、注目度79.1%。道長が未曾有の一家三后を成し遂げたシーンだ。

三条院(木村達成)が崩御し後一条天皇(橋本偉成)が即位すると、三条院の第一皇子である敦明親王(阿佐辰美)が東宮となるが、後ろ盾にとぼしい敦明親王は、自ら東宮の座を降りることを願い出た。そのため太閤・藤原道長の孫であり、後一条天皇の弟である敦良親王(立野空侑)が東宮となった。

そして1018(寛仁2)年、道長の四女・藤原威子が中宮となったことを祝う宴が土御門殿で催された。道長の長女・藤原彰子が太皇太后、次女・藤原妍子が皇太后、そして威子が中宮となり、3つの后の地位を道長と倫子の3人の娘が占めた。まったくもって前例のないことである。

ここに道長の栄華は極まったといえるが、当の娘たちの表情は一様に暗かった。「今日のよき日を迎えられたこと、これに勝る喜びはございません。心より御礼申し上げます」道長は3人の娘たちにそう申し述べるが、妍子は「父上と兄上以外、めでたいと思って居る者はおりませぬ」と冷たく言い放つ。「これで頼通も、摂政として伸び伸びと政ができましょう。お后様方のおかげにございます。心より感謝申し上げます」道長は妍子の言葉を無視して続けた。「頼通が、よりよき政を行えるよう願っておる」今や国母であり太皇太后となった彰子が形ばかりの返答をするが、妍子と威子は憮然(ぶぜん)としたままだ。道長はそんな3人に頭を下げた。

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娘たちに総スカンをくらう道長

このシーンは、天皇の妃となった3人の娘たちに総スカンをくらう道長に注目が集まったと考えられる。

999(長保元)年に彰子が一条天皇に入内してから19年の時が経ち、今や道長の娘3人が天皇の妃となり、道長の家は前代未聞の隆盛を極めようとしている。しかし、その代償は大きく、娘たちの気持ちを無視した政略結婚を強要してきた父・道長に対して、娘たちは一様に冷たい視線を投げかける。一見華やかに見える権門・藤原北家御堂流だが、その内情は冷え切っていた。長姉・彰子のみが立場上、最低限の会話を交わすものの、妹たちは絵に描いたような見事なグレっぷりだ。妍子は皮肉しか口にせず、威子は口を開こうともしなかった。

SNSではそんな3人の娘たちに、「彰子さま、心情を抑えてえらい。本当に見事な成長を遂げたな」「彰子さま、本当は妍子ちゃんみたいに道長に言いたいこと、あるんだろうなぁ」「妍子の怒りと哀しみが切ない」「妍子ちゃん、はっきり言うなー」「威子ちゃん、19歳で10歳の甥に嫁いだのか…」などといった、多くの投稿が寄せられた。

藤原実資は自身の日記『小右記』に、「一家が三后を立てるのは、未曽有である」と記しており、政治的には他に例のない偉業なのだが、家庭問題とのギャップがすごい。道長としては妻の倫子に理解がある(※頼通は父のことをどう思っているのか不明)ことがせめてもの救いだったのだろう。妍子のたった1人の子である禎子内親王はのちに後三条天皇を生み国母となる。一方、後一条天皇の中宮となった威子は、章子内親王と馨子内親王という2人の皇女をもうけるが、皇子を生むことは叶わなかった。父である道長に遠慮して、他の公卿たちは誰一人として後一条天皇に娘を入内させようとはしなかったそうだ。

威子も章子内親王を生んだ時には皇子を望んだ周囲に失望されたが、後一条天皇が「昔は女帝が立ったこともあるのだから」とかばったと『栄花物語』に記されている。威子が望んだ結婚ではなかったが、夫婦の関係はそれなりに良好だったようだ。内裏のし烈な権力争いに勝利した道長だが、多大な犠牲を払ってつかんだ勝利だということがよく分かるシーンだった。