――いろんな番組や映像制作で蓄えたノウハウを持って『ミュージックフェア』に来たときは、「こういうふうに撮れ」と言われるのではなく、自分の自由にやれたのですか?
そうだね。『ミュージックフェア』で大きいのは、谷川富也っていう後に日本照明家協会の会長になる照明マンがいて、よくアメリカのロケに連れて行くんだよ。飛行機乗ってるときに、雲の下から後光が差すように明かりが照らされることがあるでしょ? そしたら谷やんが「あれテレビでやろう!」って言うの。こっちが「あんなのどうやってやるんだ?」って聞くんだけど考えてくれるんだ。海外に行っていつも研究する人で、ニューヨークで明け方にビルの間から見える日差しを写真に撮って、どうやったらこれをスタジオでできるかって考えてたね。スタジオセットは妹尾河童さん(後に小説『少年H』などを執筆)が作ってたんだけど、「俺のセットに勝つ歌を持ってこい」なんて言うから苦手だった(笑)
――現役ディレクターの松永健太郎さんが「照明でどう見せるかがいかに大事かというのを学びました」とおっしゃっていたのですが、『ミュージックフェア』という番組において、照明は特に大事なものであるという精神が受け継がれてきたんですね。
そうそう。昔は1日1本撮りだったのが、今は2本撮りになって、なかなか照明の仕込みが深くできなくなったんだけど、その代わり、LEDが出てきたりいろんな技術が進んできた。ただ、俺は谷村新司や加山雄三のコンサートもずっとやってきたんだけど、ステージのようにいろんな機械を使ってバチバチ細かく明かりを作ることは1回のテレビ収録では予算的にもできないから、今までのやり方では限界がきてることは事実。『ミュージックフェア』には、シオノギ製薬というこの番組を大事にしてくれるスポンサーがいるからある程度作り込んでできるけど、その中でいかにうまくやっていくかだね。
――この春で日立の『世界ふしぎ発見!』(TBS)が終了しますし、シオノギ製薬の“一社提供番組”というところでの強みは感じますか?
シオノギと言えばミュージックフェア、ミュージックフェアと言えばシオノギってイメージが付いてるからね。シオノギ製薬は内容について俺らに任せてくれて、すごく理解してくれている。だからこっちも「こういうことをするのはマイナスだろうな」って気をつける。そういういい関係で60年続いてきたんだよ。
『夜ヒット』『HEY!HEY!HEY!』に対する位置づけ
――『ミュージックフェア』という番組が60年にわたり存在する中で、『夜のヒットスタジオ』や『HEY!HEY!HEY!』といった音楽番組がゴールデン・プライム帯に編成される時期もありました。こうした番組に対して、『ミュージックフェア』はどのように位置づけられてきたのでしょうか。
『ミュージックフェア』は持ち歌を歌うというより、「あの人とあの人が一緒にコラボしたらどんなものが生まれるんだろう」というところにポイントがあるわけ。新曲を出したらその人を出せばいいってやってたら、普通の番組で終わっちゃう。もちろん、新曲も紹介してプロモーションになるようにしてあげないと歌手に悪いから歌ってもらうけど、必ずコラボをやってもらうといった感じ。要するに、井原高忠さんがやってた『光子の窓』(日本テレビ、草笛光子メインの音楽バラエティショー)みたいなのがいいなと思って、それが基本にあるから「コラボだけはなくすをやめよう」って言ってきたんだ。
――持ち歌の歌唱に比べ、コラボは準備が大変ですよね。
(本番収録と)別日にリハーサルをやるからね。昔から服部克久さん、前田憲男さん、今は武部聡志と音楽監督がいて、「この人とこの人のキーならできるな」とか「ここは変えなきゃいけないな」とか考えてアレンジを作っていく。担当ディレクターも、ある程度そういうことが分かってないといけない。
――その精神が『FNS歌謡祭』にも伝播していったのですね。
『FNS歌謡祭』がコラボを打ち出す形に変わっていったのは、やっぱり『ミュージックフェア』の影響だよ。