のんきなサブタイトル「ぶらり富士遊覧」にあやうく騙されるところだった。大河ドラマ『どうする家康』(NHK総合 毎週日曜20:00~ほか)の第26回はまったくのんきではなく、悲哀に満ちたものだった。月代を剃ってすきっとした徳川家康(松本潤)と家臣団。穴山梅雪(田辺誠一)は出家して丸坊主に。新たなターンを迎え、初回から何度も登場してきた「海老すくい」――左衛門尉(大森南朋)の十八番を、ついに家康が舞った。

  • 徳川家康役の松本潤

左衛門尉を中心に家臣団は、興が乗ると海老すくいを踊っていたが、家康だけはこの踊りをいやがって、これまで一緒に踊ることはなかった。ところが、いつ練習したのかやけにうまく(中の人が松本潤だから本気出せばうまいに決まっているのだが)、鍛えられた体幹でブレなく、リズミカルに歌い踊る。於愛(広瀬アリス)や茶屋四郎次郎(中村勘九郎)などまわりも囃し立て、盛り上げる。織田信長(岡田准一)をもてなすためで、「男ならせめてなりたい織田家臣団」という替え歌バージョンだ。

小舞台のような場所に上がり、その中心で踊る松本潤。やはり彼にはステージが似合う。松本のうまさも相まって、家康の「海老すくい」はショーとして見応えがあるが、なぜかこのうえもなく悲哀に満ちている。気がすすまないにもかかわらず、本音を殺して明るく振る舞っているからだ。第25回から存分に発揮された松本の憂いが、ここへ来てさらなる深みを見せた。

最近のエンタメは「闇落ち」というシチュエーションがよくある。健全に生きてきた人物があることをきっかけにふいにダークサイドに落ちてしまうパターンで、みるみる暗い顔になり、瞳にも光が消え真っ黒になるというような表現がされる。松本演じる家康の場合、黒潤、黒家康というようなパキッと反転するのではなく、太陽に雲がかかったようだった。のちに東照大権現となるくらいなので、太陽であり、当人は決して闇にならない。

ときに雲に隠れるだけである。その太陽に分厚い雲がかかったのか、うっすら雲がかかって光が漏れているのか、という微妙な空模様のような表現が、松本潤なら成立する。「海老すくい」はさながら、天気雨である。踊る家康の背後は、満開の桜。儚げに散る花びらが涙のようにも見えた。「ぶらり富士遊覧」というのんきなサブタイトルにあやうく騙されそうだったが、全くのんきではない回だった。このサブタイトルにも、家康の「(人を化かすたぬきに)化けた」感が込められている気がする。

愛する妻・瀬名(有村架純)と息子・信康(細田佳央太)を亡くした家康は人が変わったようになって、信長を上様とたてまつり、彼の言いなりに、残虐な殺傷行為を行う。まっすぐな平八郎(山田裕貴)や小平太(杉野遥亮)などは家康を責めるような目で見る。

  • 織田信長役の岡田准一と徳川家康役の松本潤の乗馬シーン

悲し過ぎる「海老すくい」を見て、松本潤が嵐5人で主演した『ピカ☆ンチ LIFE IS HARDだけどHAPPY』(02年)を思い出した。団地に住む、未来のある若者5人――シュン(相葉雅紀)、ボン(松本潤)、タクマ(二宮和也)、ハル(大野智)、チュウ(櫻井翔)はサラリーマンたちの宴会の場・屋形船を転覆させる計画を行う。頭にネクタイを巻いて宴会するサラリーマンは彼らのなりたくない大人の象徴であった。あゝ、家康は今、このサラリーマンのようである。ネクタイは巻いてないものの、出たくもない宴会や飲み会で、おどけて本音を隠して上司やクライアントに媚びへつらうつらさは同じであろう。大事な言葉「厭離穢土欣求浄土」を馬鹿にされても反論せず信長の言うことをニコニコ笑って肯定し続ける。一見、楽しそうだけれど、海老すくいは土下座みたいなものである。

脚本家の古沢良太氏は、織田信長を主人公にした映画『レジェンド&バタフライ』で筆者がインタビューしたとき、信長を中小企業のやんちゃな2代目に例えていたのだが、今の家康もまさに諦めたサラリーマンの悲哀に通じるものがあった。平八郎や小平太はまだ反骨精神のある若い社員というふうだ。

だが、そうやっておどけている姿の裏で、家康は信長に対して沸々とある思いをたぎらせる。自分を殺して誰かに仕えるのではない生き方を家康は選ぶのか――。

家康の本心を見せない様は、前半の、秀吉(ムロツヨシ)とのやりとりにも現れている。瀬名が亡くなった話を振られ、「お恥ずかしい限り」「愚かなる妻と息子」と返す場面で、家康とムロの横顔が交互に映る。顔の反面しか映さないことで、会話はいたっておだやかなものだが、反対側の顔(腹のなか)は違うのではないかと想像させる表現にスリルがあった(演出は川上剛氏)。

『コンフィデンスマンJP』ではコンゲーム(騙し合い)の世界を痛快なコメディ化した古沢氏だが、どんなに痛快そうな作品でも、どこか状況を冷笑しているようなところがあるのが古沢作品の妙である。『どうする家康』にもいよいよその本領が発揮されてきた。

いわゆる、たぬきおやじ化しはじめた家康の変化を、信長は敏感に感じ取っている。だからこそ、2人が馬で富士の麓の清々しい草原を駆ける姿は重層的だった。

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