嵐の松本潤が主演を務める大河ドラマ『どうする家康』(NHK総合 毎週日曜20:00~ほか)はなぜ回想シーンが多いのか。第1回から第12回まで見て、回想シーンの多いわけについて考える、その前に、ひとつ押さえておきたいことがある。大河ドラマの楽しみのひとつは、これまでネガティブに捉えられてきた人物が別の角度から光を当てられ、みるみる魅力的になることである。

  • 『どうする家康』今川氏真役の溝端淳平(左)と今川義元役の野村萬斎 写真提供:NHK

    『どうする家康』今川氏真役の溝端淳平(左)と今川義元役の野村萬斎

例えば、『鎌倉殿の13人』では北条義時(小栗旬)、『麒麟がくる』では明智光秀(長谷川博己)の印象が変わった。ダークヒーロー視されていた義時も、裏切り者の策士とされてきた光秀も、彼らなりの理念を持って誠実に生きてきた人物として視聴者の支持を得たのである。

『どうする家康』では今川氏真(溝端淳平)が主人公ではないながら、印象を良いほうに変えることに成功した。これまでは、“海道一の弓取り”と称えられた今川義元(野村萬斎)を父に持ちながら、当人は蹴鞠や和歌が得意で戦や政(まつりごと)の才能がなく、義元の死後、10年ほどで今川家を滅亡させてしまった愚将とされてきたが、最近では名誉回復の機運がある。『鎌倉殿の13人』の実朝(柿澤勇人)や『青天を衝け』の徳川慶喜(草なぎ剛)の扱いに近いだろう。彼らもまた愚将かそうでないか意見が分かれる存在であり、ドラマでは彼らの長所がフォーカスされた。

『どうする家康』で氏真に寄り添うために使用された手法が回想である。氏真に才能がないと厳しく突きつけた義元だったが、武芸や政治の才能がないなりに、真面目に励んでいればいつか芽が出るだろうし、才能のある家康(松本潤)に支えてもらいながら今川家を盛り立てていってほしいと義元が考えていたことが回想で明らかに。氏真の妻・糸(志田未来)が意外な事実の語り部となる。

長い目で息子を育てようとした義元だったが、思いがけず桶狭間で信長(岡田准一)に討ち取られてしまった。この運命のいたずらから『どうする家康』が始まったことが回想を入れることで改めて浮き彫りになった。

第1回「どうする桶狭間」から第12回「氏真」までは、今川家の滅亡によって家康が戦国時代に躍り出たことを描く、1年間の大河ドラマの序章である。逆を言えば、桶狭間の番狂わせによって今川家の力が弱まることがなければ、家康は今川家の二番手としてのんびり生きていたかもしれないと思える話になっている。

第11、12回で連続して出てきた回想シーンは、義元、氏真、家康、瀬名(有村架純)、氏純(渡部篤郎)、巴(真矢ミキ)、田鶴(関水渚)が楽しそう一堂に会しているものだった。ここまではまだ今川家が栄える世界線である。残念ながらそれは消滅して、義元、氏純、巴、田鶴はこの世にいない。

なぜ、こうなったか。義元が早くからちゃんと家康と氏真と向き合って話しておけばよかっただけとも言えるが、前述したように、まだ自分が死ぬと思ってもみなかったのだろう。

家康は人質として氏真に気を遣って弱いフリをして、それを知った氏真は屈折を抱えるようになる。氏真と家康が袂を分かつことになると、仲が良かった瀬名と田鶴の関係もねじれていく。瀬名は田鶴に本心を隠し、田鶴はよかれと思いながら瀬名を不幸に陥れることになる。なんたる悲劇。不幸の連鎖である。

  • 若き日の氏真(溝端淳平)と家康(松本潤)

第2回では家康と信長の過去が、第4回では家康と市(北川景子)の過去が、第9回では本多正信(松山ケンイチ)の過去が回想として出てきた。それぞれの幼少期の大切な人との楽しいふれあいはすでにオンエアされた場面を回想として再び映すのではなく、初出の過去のシーンである。登場人物にとっても、視聴者にとっても意外な過去の場面が、わりと唐突に挿入されるので見てるほうはちょっとびっくりする。でも、現実はそういうものではないか。何かの折に、他人は実はこう思っていたとか、実はこんなことがあったとか、予想していなかった事実が明かされて、愕然となる経験は誰しもあるだろう。でも人知れず、過去の出来事が人物の考え方や行動に影響を与えている。

大河ドラマは歴史ものなので登場人物の過去も未来も視聴者があらかじめわかっていることが多い。知っていることの答え合わせのようなところがあるが、『どうする家康』は答え合わせドラマとは違う道を行く。それによって浮かび上がるのは、穏やかで幸福な過去であり、それがある瞬間から失われた事実である。うまくいっていたものが徐々に壊れていくことを時系列で見守るのではなく、ある出来事の発端を振り返って知ることは、歴史を調べ解き明かす視点と似ている。ある出来事を調べていったら、実はこんなことがあったという発見によって、これまで歴史はどんどん書き換えられてきた。この新事実によって歴史ドラマも変わってきたのだ。北条義時や明智光秀が、実朝が、慶喜が新たなキャラクターに生まれ変わってきたのだ。

まるで歴史研究する人の遡るような視点で物語を書いているような『どうする家康』だが、史実をそういう視点でなぞるのではなく、あくまでも“物語”を描いている。物語を描く上での視点が新しいということだ。こういう視点があっていいのは、氏真のような生き方があっていいこととなんら変わりはない。

こうして『どうする家康』の今川氏真は無能ではなく、あくまで政や戦が苦手なだけであり、それが得意でないと生きる意味がないというこの時代の価値観と違う道を選んだ人物としてめでたく尊重された。この氏真の生き方をうらやましく思う家康はもはや穏やかな道を選ぶことができない。『どうする家康』は、修羅の道を選ばざるをえなくなった人物の物語だから少し苦い。やがて天下をとり、誰よりも安泰な徳川幕府を作るという人物の安心な未来とはこれもまた違う角度になっている。

(C)NHK