縁日に並ぶ屋台で働く人たちのリアルな姿を、10年以上に渡って記録した写真を展示した写真展「TEKIYA 的屋」が、東京・六本木の禅フォトギャラリーにて開催中。「写真を撮りながら、今でもテキヤで働いている」という韓国人フォトグラファーの梁丞佑(ヤン・スンウー)に、1996年に来日してから始まった、これまでの「写真人生」を振り返ってもらった。
――ヤンさんは、もともと日本に来て写真を撮ろうと思われていたんですか?
いや、全然(笑)。韓国でいつもつるんで遊んでいた友達と「ドライブに行こう」とソウルから車で高速を飛ばしたら、3時間ちょっとでもう釜山に着いてしまった。そこから先は、道がないんですよ。「韓国は狭いなぁ……」と思いながら海を眺めていたら、一緒にいた友だちが「ここをまっすぐ行けば日本だよ」と言うから、そのまま泳いで来ちゃいました(笑)。
――(笑)。1996年に来日されて、すぐに写真の専門学校に?
まずは日本語学校に通って、最低限の日本語を身に付けて。学生ビザを取得するために、たまたま学校で見つけた写真の専門学校に願書を出したんです。場所だけで選びました(笑)。
――それまでカメラを持ったこともなかったんですか?
全くないです。韓国では撮ったことがなかったので。カメラも最初は学校から借りていて。
――学費はどうやって用意したんですか?
奨学金とバイト代で賄いました。あとは、フォトコンテストに出して賞金をもらったり。当時、留学生には返さなくていい奨学金も結構あったんですよ。
――学生時代はどんなアルバイトを?
その頃は日本語もある程度しゃべれるようになっていたので、韓国系クラブのマネージャーをやったり、歌舞伎町で「軽トラ」で花を売ったり。儲けは結構良かったんだけど、酔っ払ったホステスさんたちが花を買わずに俺を買おうとするから、面倒くさくなっちゃって(笑)。
――(笑)。それで「だったら本腰を入れて写真をやろう」と。
そうです。学校の先生が「自分が好きなものを撮ればいいんだよ」と教えてくれて。「俺は歌舞伎町が好きだなぁ」と思って、歌舞伎町を居場所にしている人たちを撮り始めたんです。
――でも、歌舞伎町にいる人を撮るのは日本人でもかなり勇気がいる気がするのですが。
さすがに初日は「撮りたい!」と思った人たちに声がかけられなくて、悔しくて、その夜は眠れなかった。金曜日の夜に歌舞伎町に行って、日曜日の夜までずっと段ボールで寝泊まりしながら、被写体を探してました。「一発殴られてもいいからダメ元で声をかけてみよう」と思って、「写真の勉強をしてるんですけど撮らせてください」と頼んだらOKしてくれて。1997~98年くらいの新宿は全然大丈夫でしたよ。もちろん怖い人たちもいましたけどね。
――撮影中、実際に怖い目にあったり、身の危険を感じたりしたことは?
これからどうなるかは知らないけど、今までは特にないですね。俺は、間違ったことはしないから。勝手に写真をどっかで使ったりしないし、もし撮っている最中にちょっとまずいなと思った時は、逆にわざと相手にカメラをむけて、「私はいまあなたを撮ってますよ。嫌だったら言ってくださいね」って感じで撮るから。ある時、冬に段ボールで寝ていたら、熱い缶コーヒーの下に1,000円札を置いてくれた人がいて。それで「松屋」の牛丼を食べました(笑)。
――最初に出した写真集はどれですか?
学生の頃、出版社主催のコンテストでグランプリを獲ったときに、写真集にしてくれたのが最初で、歌舞伎町の段ボールハウスの隣人のホームレスの人を撮った写真です。「何時に、どこに行けば炊き出しがあるよ」って、彼が全部教えてくれたんですよ。その後、しばらく写真集が作れなかったんですが、禅フォトギャラリーのオーナーと出会って、初めて出版したのが『青春吉日』です。これはすぐに売り切れて、このまえ新装版を出し直しました。学生時代、韓国と日本を行ったり来たりしてたときに韓国で友だちと撮った写真が中心です。
――最初に禅フォトギャラリーのオーナーに見せたのは、どの写真だったんですか?
『新宿迷子』に収録されている写真です。名刺をいただいて、自分は名刺がないから写真を見せたんです。たまたまバックにダミー本が入ってたから。僕の場合は「完成したな」と思ったら、まず自分でダミー写真集を作ってみるんですよ。で、それを見ながら「素晴らしい」って一人で満足するんです。オーナーと知り合う前は、いろんな出版社に持ち込んでも「写真はいいけど、ヤクザが写ってるからうちでは出せない」と言われて、「なんだよ!」ってムカついて。ずっとイライラしてました。
あまりにも誰も相手にしてくれないから、一度だけ写真を諦めようと思ったことがあるんです。でもみんなに「大変だからやめたらしいよっ」て言われるのはカッコ悪いから、事故に遭って腕とか足とか折れたら、それを言い訳にしてやめられると思って、カメラ片手に自暴自棄で新宿の街を歩き回りました。翌日は、ひどい二日酔いであちこち痛かったけど、ケガ一つしてなくて。カメラには赤信号しか写ってなかった(苦笑)。
それならもうちょっと頑張ってみようと思って。そこからちょっと考え方を変えて。お金を稼ぎながら写真も撮れるような面白い仕事はないかなと思っていた時に、テキヤのバイトを見つけたんです。そしたら『新宿迷子』で「土門拳賞」ももらえた。その途端、いままで散々断わり続けていた出版社の人たちが、「また一緒にこういうのを作ろう」「製作費も出すから」って寄ってくるんですよ。急に手のひらを返したように。
――「土門拳賞」と言えば、「木村伊兵衛賞」と並んで権威ある賞ですからね。
でも自分は、「とにかく自分が面白いと思うものを撮って自分の物語を形にしたい」という、強い思いがありました。自分が撮ったものを、物語みたいに編集するのが好きなんです。