吉田:各曜日と増刊号のディレクターが6人いて、1人ずつその月の「テレフォンショッキング」を担当するんですけど、結局みんなADに任せてましたよね(笑)

小林:でも、テレビ局がやるとどうしてもキャスティングって見えちゃうんですよ。そこで、タレントさんから名前を出してもらって、優先順位を決めてもらい、その順番でキャスティングしていくわけです。だから時間がかかるんですよ。「ちょっと待って、調整するから」とか言われて。

永峰:この返事を待たないと、次に進めないっていうね。

小林:「もうダメだったらダメでいいから、早く決めてよ!」って。

吉田:携帯もポケベルもない時代ですから、必ず固定電話にかけて、「折り返してくださいね」っていう感じで、皆さんやってましたよね。

小林:だから、予定していた人が急に変更になると、後ろにいる人たちもずらさないといけなくて、これがまた大変なんですよ。僕が一番大変だったのは、泰葉さんが、紹介する人の電話番号を間違えて、どっかの商店街のお姉さんにかかっちゃって、タモさんが「明日来てくれるかな?」って聞いたら、「いいとも!」って言っちゃったもんだから、そこから1週間素人さんでやったんですよ(笑)

吉田:一般人の「テレフォンショッキング」ありましたよね。間違い電話と言えば、かけた相手にタモリさんが「失礼ですが、どちら様ですか?」と聞いたら、「森田です」「えっ!?」となって、森田馬之助さんという方がいましたね。その人は『特大号』に出てもらいましたよ。でも、よくそんなことが許されましたよね(笑)

小林:まあ乱暴な番組でしたよね(笑)。でも、それが面白くて時代にも合ったのかなあ。

■ディレクターが電話をかけていた理由

  • 「ブッチャー小林」として出演もしていた小林豊氏=本人提供

吉田:小林さんはいつから「ブッチャー小林」として「テレフォンショッキング」の電話をかけるようになったんですか?

小林:最初から。タレントさんの自宅にかけるときは本人が電話してたけど、事務所とかの場合は僕が電話して。でもあれはね、横澤さんの策略だと思うんだよね。本当は「テレフォンガール」っていうのをオーディションで決めようっていう話だったの。

吉田:『笑ってる場合ですよ!』に「テレフォンメイツ」っていうのがあったんですよね。

永峰:あったあった(笑)

小林:要は、その場で電話して明日出てくれる人にお願いするわけだから、それをタモリさんがやると番組が止まっちゃうじゃないですか。それには「テレフォンガール」が必要だってなって、記憶にあるのは2回オーディションやったんだけど、番組開始1週間前になってもまだ決まってない状態だった。それでどうしようという話になったときに、永峰とかは『ひょうきん』でレコード出して(※)もう顔が出てるから、彼らがやればいいじゃないですかって言ったんですよ。でも横澤さんが「新鮮さがないんだよね」って言って、結局「ブッチャーやってよ」って泣きつかれて、1週間の約束だったのが1カ月になって、結局5年やりました。

(※)…「ひょうきんディレクターズ」(佐藤ゲーハー義和、三宅デタガリ恵介、荻野ビビンバ繁、山縣ベースケ慎司、永峰アンノン明)として「ひょうきんパラダイス」を82年にリリース。

――最初から「ブッチャー小林」という名義だったんですか?

小林:これは、『笑ってる場合ですよ!』をやってるときに、僕が色黒なもんだから、(島田)紳助に「ブッチャー(※)みたいですね」って言われて、あだ名になってたんですよ。あのとき「キャロライン」って言われてたら、「キャロライン小林」ってきれいな名前だったのに。それで、最初から「テレフォンディレクター・ブッチャー小林」で出ました。途中から「ぶーちゃん」になりましたけどね。

(※)…プロレスラーのアブドーラ・ザ・ブッチャー