吉田:「テレフォン」で、昔「お寿司」ってありましたよね。ゲストが決まらなくて、夕方5時くらいになると事務所も閉まっちゃうから、どうしようとなったときに、誰かがお寿司の出前を取ったら決まったんで、それからはゲストが決まらないときはお寿司を取るっていう。

永峰:あったねえ、お寿司!

小林:ゲン担ぎでね。

吉田:生放送で、明日電話する人が決まってないって、しびれるじゃないですか。そうなると、「もう誰でもいいから決めちゃおうよ」っていう誘惑があるんだけど、結構粘ってましたよね。本当のお友達に徹底的にこだわったことは本当だと思います。

――ゲストに開店祝いみたいなお花とか電報が届くようになったのは、何かきっかけがあったのですか?

永峰:あれ、何でですかね? でも、結構早い時期にお祝いのお花が来て飾るようになって、それからどんどん増えてきたような気がします。

――ライブとか舞台だと、普通はロビーとか楽屋に飾るじゃないですか。それを舞台に上げるというのは、斬新ですよね。

永峰:これも1つの話題だし、「面白いから出しちゃおうよ」ってなる番組だったんだと思います。そしたらどんどん増えて「やべえ!」って感覚になった記憶がありますね(笑)。セットに載せられないときは、ロビーまでいってたもんね。

吉田:ハンディ(カメラ)で追って紹介してましたよね(笑)

小林:一時は競い合いもあったもんね。「こんなに花が来てます!」って紹介したら、次のゲストも負けたくないから、「今日もこんなに来てます!」って(笑)

吉田:本当に、毎日がお祭りでしたよね。

■バーカウンターをイメージして横並びに

永峰:「テレフォンショッキング」のセットはこだわりがあったんです。サトちゃん(佐藤義和ディレクター)は「応接セットにしたい」って向かい合う形にしたがったんだけど、俺はカウンターにしたいっていうのがあって。タモさんがカウンターバーで飲んでて、そこに横に誰かが来てしゃべるっていうイメージなんですよ。それでサトちゃんとは結構戦ったんですけど、我が強いもんで押し切ってあの形になりました(笑)

吉田:あらゆる伝統は、意外と思いつきだったりするんですよね。『特大号』でタモリさんが神父さんになって「アナタハ神ヲ信ジマスカ?」ってやったけど、たまたま何かで「面白いからあれやってくれませんか?」って始まって最後まで続いたんですから。そういえば『特大号』って最初は正月でしたよね。だから、あの頃は元日に『爆笑ヒットパレード』があって、3日に『放送演芸大賞』があって、『特大号』があって、もうそんなに働いたら死んじゃうよ!って(笑)

小林:でも、そのスケジュールが頭からあるから、それが終わってお正月という感じがずっとありましたよね。元日に休んでるのが、むしろおかしい感じで。

次回予告…オーディション終わらずそのまま生放送へ突入!

●小林豊
1951年生まれ、静岡県出身。専修大学卒業後、74年に制作会社・フジポニーに入社。80年に制作部門を復活させるフジテレビジョンに転籍。『欽ドン!』シリーズや『笑ってる場合ですよ!』『笑っていいとも!』『ライオンのいただきます』『所さんのただものではない!』などを担当し、92年営業局に異動。営業局長、スポーツ局長、取締役を経て、09年から19年までテレビ静岡社長を務めた。21年に旭日小綬章を受賞。

●永峰明
1954年生まれ、東京都出身。制作会社・フジポニーにアルバイトから入り、80年に制作部門を復活させたフジテレビジョンに転籍。『THE MANZAI』『オレたちひょうきん族』『笑っていいとも!』『冗談画報』などを担当し、89年に退社。フリーの演出家として活動し、東京NSCの講師、『キングオブコント』の審査員も務める。13年からワタナベコメディスクールの講師を務め、同事務所のライブの監修を行い、芸人育成を担当している。

●吉田正樹
1959年生まれ、兵庫県出身。東京大学卒業後、83年にフジテレビジョン入社。『笑っていいとも!』『夢で逢えたら』『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』『笑う犬の生活』『ネプリーグ』『トリビアの泉』などを制作し、編成制作局バラエティ制作センター部長、デジタルコンテンツ局デジタル企画室部長も兼務。09年にフジテレビを退職、吉田正樹事務所を設立し、ワタナベエンターテインメント会長に就任(現職)。