大河ドラマ『青天を衝け』(NHK総合 毎週日曜20:00~ほか)の第36回「栄一と千代」(脚本:大森美香 演出:黒崎博)は長らく支えてくれた最愛の妻・千代(橋本愛)を失った栄一(吉沢亮)の嘆きが胸に染みた。

  • 『青天を衝け』渋沢栄一役の吉沢亮

この回で印象に残るのは人間の「欲望」である。経済的に豊かになりたい欲望だけではない。人間の最大の欲望、それは「寿命」。長生きしたい。病気になりたくない。でも人類はまだ命を自在にコントロールする方法を手に入れていない。命は神様の領域である。栄一は叶わぬ欲望――愛する千代の命を救うことができず絶望のどん底に落ちる。

経済の仕組みを使って誰一人取りこぼすことなく全員を幸福にしたいという栄一の理想は、人間の寿命を司るほど困難であることが、千代の死によって浮き彫りになった。史実的には妻の死が渋沢栄一にとってどれくらいの重要度を締めていたかはわからない。『青天を衝け』の中では千代を栄一の理想の体現として描くことで美しい構成になっていると感じる。

一社で利益を追求する岩崎弥太郎(中村芝翫)率いる三菱に対抗し、あくまで合本にこだわる栄一は海運業者の合本組織・東京風帆船会社を設立した。その時は生き生きと自信に輝いていた栄一の顔がやがて……。

渋沢家では娘のうた(小野莉奈)が「いつまでもこうして父様と母様と健康で幸福に暮らしたい」と言って縁談を遠ざけている。千代はそれを「幸か不幸かは神様がお決めになること。もとよりそれに従うしかないのですよ」とたしなめる。

神様の定めにあらがい幸せになろうとするのは欲深いことだと考える千代のセリフや、岩崎の策略で栄一が事業がうまくいかず死んだというデマが流れ、それを聞いた千代たちが大慌てする場面など、冒頭から「死」や「敗北」の匂いが漂っている。

経済の発展のためには切り捨てないといけないものがあると主張する者に対して、栄一はあくまでも全員を救いたいと考える。負ける者があってはいけないと。そんな栄一を五代友厚(ディーン・フジオカ)は「欲深き男じゃ」と指摘する。やっていることは岩崎と違うが根本は似ていて「おのれこそが日本を変えてやるという欲に満ちちょる」と言うのだ。

その言葉が刺さり、栄一は「理想だけでは太刀打ちできぬことを岩崎さんに突きつけられた。皆を救いたいと思っても現実にはできねえ。切り捨てねばならねえこともある」と肩を落とす。

話を聞いた千代は「昔から欲深い男ですよ」と笑う。千代は五代の考えを肯定し、その上で「でも私はおまえさまのここ(心)が誰よりも純粋で温かいことも知っております」と微笑む。欲深さと純粋さは紙一重であり、人間は矛盾に満ちている。この哲学に説得力があるのは第5回で「強く見えるものほど弱きものです。弱きものとて強きところはある。ひとは一面ではございません」と言った千代だからこそ。

これまでの『青天を衝け』が吉沢亮の資質なのか、栄一の純粋さが際立っていた印象があった。それが明治になって栄一が先頭に立って動けば動くほど、彼の中の矛盾は激しくなっていく。そんな時に栄一は最大のダメージを被る。それは千代の死だ。

栄一と千代が語らう場面で、千代はうたが結婚したので「これで思い残すことはございません」と言っている。もう死亡フラグが立ちまくりで、ほどなく千代はコレラに感染する。

厚生労働省のサイトに「明治期におけるコレラの患者数及び死亡者数の推移」が掲載されている。明治12年には16万人以上とかなりの伸びを見せている。千代が亡くなったのは明治15年だ。第35回でもさりげなく会話の中にコレラが流行ってきていることが盛り込まれていた。

千代の枕元で栄一は「おまえがいなくては俺は生きていけねえ。もう何もいらねえ。欲も全部捨てる。おまえさえいればいいんだよ」と涙ながらに語る。すべての彼の欲と千代の命を引き換えにしてもいいほど千代に生きていてほしい。でも千代はこの回の序盤、「幸か不幸かは神様がお決めになること。もとよりそれに従うしかないのですよ」と言っていたとおり運命に抗う様子を見せない。「生きてください」と栄一の理想を叶えてほしいと願いながら息絶える。

母の突然の死に「なぜ母様が亡くならなくてはならいのですか。母様がどこをとってもすばらしいお方でした。かけがえのねえお方でした」とうたは嘆く。

深い哀しみに満ちた時でもよし(成海璃子)は「何か食べねえとみんな弱っちまう」と食べ物を用意しようとする。血洗島で長く生きた人たちは自然に従う感覚を備えている。千代やよしや亡くなっていった栄一の父母の姿には、足るを知り、自然の摂理に従うことを感じる。一方、栄一たちのように学問を学び文明を発達させていく者たちは、今あるものを変えたいという欲望が募っていく。そういう人たちがいるからこその発展であってどっちがいいかとは言い切れないが……。

ラストカット、ぽつんと縁側で座っている姿が、栄一の孤独を際立たせた。それでも彼は理想を実現するために行動していく。渋沢栄一が91歳まで生きたのは、やるべきことのためだったのかもしれない。

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